道喜門

マーカーは道喜門です。

道喜門
[天文5年(1536)に織田信長が上洛して、御所の修理をしたときに川端道喜は工事奉行として、工事全体を監督したことです。現在も通称「道喜門」で通っております、京都御所の正面の建礼門のわきに小さな穴門といわれる門があります。これは、初代道喜が工事の時に工事用の資材を運び込むために塀に小さな門をつくったものの名残です。その後御所は何回も焼けておりますが、道喜門は今もその形で残っております。初代道喜はこのときの功績により織田信長の奉行村井長門守貞勝から、諸役免除の奉書を受けております。  (「川端道喜」より)]

道喜門紹介サイト・[川端道喜 – 「行ってきました」シリーズ – So-net]

カメラ北東方向・築地塀角と建礼門の間にある穴門が道喜門です。

川端道喜
[生年: 生年不詳
没年: 文禄1.7.26 (1592.9.2)
戦国安土桃山時代の京都の豪商。京都御所へ,を供御した菓子司。本名中村五郎左衛門。洛中新在家川端町に住み,入道名を道喜と称したところから川端道喜の名がある。学問,教養,芸能に深くなじんだ文人でもあり,京餅座の重鎮でもあったらしい。代々が道喜と称し,以後16代にわたり京都の代表的な菓子舗として知られる。供御される粽,餅は,明治維新まで「お朝物」(朝餉の儀)として残っていた。同家には『川端道喜文書』をはじめ,数々の餅菓子史料が残され,今日に伝えられている。墓は京都の浄福寺(上京区)にある。  (「 川端道喜 とは – コトバンク」より)]

[足利将軍の時代に朝廷の財政が窮地に追い込まれ、天皇の食事も十分に用意できない時代がありました。その頃「川端道喜」(かわばたどうき)という餅屋の主人(初代道喜)がその様子を嘆き、毎朝天皇にできたての餅を献上しました。当時天皇は毎朝届けられる餅が楽しみだったと伝えられています。
 川端道喜の献上した餅は「おあさ」と呼ばれるようになりました。「おあさ」は六つほどを素焼きの皿に盛り付けられ、白木の三方に載せて、毎日毎日天皇に献上されました。江戸期には朝廷の財政は安定し、天皇が食べるものに困るということはなくなりましたが、朝廷は困窮期の恩を忘れず、川端道喜を禁裏御用として用い続けました。
 江戸時代以降、天皇は「おあさ」を見るだけで昔のように食べることはなくなりましたが、毎朝朝食前に餅をご覧になる「朝餉の儀」(あさがれいのぎ)、つまり儀式として宮中に残り、明治期まで続けられたのです。川端道喜はおよそ500年間、餅や粽(ちまき)を御所に納め続け、現在も京都に店を構えています。
 明治2年(1869)に明治天皇が東京に御移りになると、京都・大阪に暖簾(のれん)を構える禁裏御用の商人たちは困りました。この時、川端道喜は東京に移り住みましたが、東京では餅が売れず、京都に戻り店を続けました。現在の川端道喜へリンク  (「第46回、宮内庁御用達 – 皇室のきょうかしょ – 少年タケシ」より)]

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