京都所司代屋敷跡

マーカーは京都所司代屋敷跡碑(旧待賢小学校前)です。

京都所司代
[京都所司代とは江戸幕府の職名で、それ以前、16世紀後半の戦国末期織田信長や、その後の豊臣秀吉が、京の支配、治安維持のために、室町幕府侍所の長官である所司の代理の官に倣って設けられていました。1600年以降、江戸幕府が成立すると、二条城の監督、京の制圧、朝廷公家の監察、西日本諸大名の監視のほか、五畿内および近江丹波播磨の8箇国の民政を総括するため、二条城の北側に設けられました。関ヶ原の合戦後の1603年に徳川家康征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が成立すると、正式に板倉勝重や子の重宗が京都所司代に任じられて以後、明治に至るまで56名の所司代が任命されています。(江戸幕府成立前には奥平信昌などが京都治安維持のために一時所司代に就任)定員は 1名で、3万石以上の譜代大名から任命され、役料 1万石が給されて与力30騎(後50騎)同心100人が付属し、老中につぐ要職で、江戸時代初期は、徳川家康ほか秀忠家光ら歴代将軍が度々京へ上洛し、京都所司代が重要な役割を果たしました。幕府支配の一元化が進んだ1688年には、京都支配などの権限を京都町奉行に譲って以降、江戸の老中への出世の通過点となり、地位のみが高くて幕政上の政治力は急激に低下しました。幕末に至っては、所司代の無力さが露呈し、幕末の動乱期は、所司代だけでは京の治安を維持するのは困難となり、その上部の最高機構として京都守護職が置かれ、所司代はその下に入り、やがて明治維新を迎え、慶応3年(1867)12月に廃止されました。
京都所司代は、二条城の北から西北にかけての広大な敷地を有し、当初は上屋敷・中屋敷(堀川屋敷)・下屋敷(千本屋敷)の三個所に分かれていました。江戸時代初期は所司代が住んだ私邸を下屋敷と呼称していましたが、付属屋敷が増えたため、下屋敷は中屋敷と名称が変わり、勤番者やその家族の居住区域となりました。
今回の調査地は、政庁(所司代の居所)であった上屋敷跡で、東限は猪熊通り、1700年の「所司代屋敷絵図」によれば敷地は凸形で、面積は3,674坪でした。その後、元禄16年(1703)以降に、周辺民家が収用されて西限が日暮通りまでとなり、敷地は東西122間半、南北81間(敷地面積は8,799坪)に拡張されています。上屋敷跡は、現在の通り名では東限が猪熊通り、北限は丸太町通り、西限は大宮通り、南限は二条城馬場通り(竹屋町通)で東西約227m、南北約150mの大規模な敷地を有していました。  (「京都所司代上屋敷跡発見の建物跡と池及び木樋跡.pdf」より)]

[京都大学附属図書館が所蔵する、江戸時代の「中井家絵図・書類 幕府之部」図面13タイトルを電子化・公開しました。2020年1月27日現在、京都大学貴重資料デジタルアーカイブの公開件数は、14,372タイトル、1,333,705画像となりました。
中井家絵図・書類」は、江戸幕府京都大工頭の中井家(中井正清)に伝わった図面を中心とした資料で、二条城京都御所下鴨神社をはじめとする諸寺社等建築関係の図面、古文書、地図などが含まれます。今回は、京都所司代や京都守護職などに関係する「幕府之部」から建築物の図面13点を電子化し、公開しました。
所司代上御屋敷絵図(江戸後期)」「所司代堀川屋敷絵図」「享保六(1721)年丑十二月 所司代千本屋舗絵図 正扣」「京都所司代千本屋舗絵図(1809)」  (「江戸時代の「中井家絵図・書類 幕府之部」図面13タイトルをを電子化・公開しました」より)]

「所司代上御屋敷絵図」には北側間口93.5間(170m)、西側端から南方向46間(83.6m)、そこから西側に26.5間(48.2m)、そこから南側への寸法は不記載ですがスケールで想定すると、29.5間(53.6m)になります。南側間口が93.5間+26.5間=120間(218.2m)、東側は46間+29.5間=75.5間(137.3m)の範囲になり、東側は猪熊通りと記述されていますので、南側を竹屋町通としてマイマップに描いてみました。
「所司代堀川屋敷絵図」には南側間口52.5間(95.4m)、西側は32間3尺5寸(59.2m)立ち上がって、東側に折れます、この地点の寸法は記述されていませんが、差し引きすると、16.1間(29.3m)になります。そこからさらに上に36間(65.4m)行き、右に折れます。20間5尺5寸(38m)行き、南方向に折れます。35間(63.6m)行き、東方向に折れ、15間半(28.2m)行って、南方向に折れ、そこの間口が35間(63.6m)となる凸型の敷地になります。
「京都所司代千本屋舗絵図」には南間口209間(380m)と記述されていますが、上方向全体は描かれていませんので、「享保六(1721)年丑十二月 所司代千本屋舗絵図 正扣」から、南北291mと想定して描いてみました。

二条御城廻図」(二条御城左下、土屋越前守が京都東町奉行所になります。二条城は堀川通り、千本通りの縮尺から見ると小さく描かれています。)

中井家絵図・書類 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」 – 「寛永後萬治前洛中絵図(出版年 1642)」(絵図中央に二条城が描かれ、その右側に一連の京都所司代屋敷地が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – [洛中絵図・洛外絵図]. [2]」(コマ番号2/5・絵図四つ切右下、御城の右下、所司代下屋敷が京都所司代屋敷跡碑(旧待賢小学校前)のばしょになります。)

国立国会図書館デジタルコレクション – [京師図]」(安永3 [1774] – 絵図中央左下・二条御城左に諸司代千本ヤシキと描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全」(文久3 [1863] – 絵図中央左上・二条御城上に御所司代と千本御屋敷と描かれています。)

国際日本文化研究センター – 都15号 假製二万分一 京都(明治22・1889年)」(地図四つ切右下・二条離宮上、「宮」の下が京都所司代上屋敷、その右が中屋敷、左が下屋敷跡になります。)

京都所司代屋敷跡
[京都所司代は,朝廷をはじめ西日本支配のための江戸幕府行政機関で,慶長6(1601)年,板倉勝重(1545~1624)が任命されたのを初代とする。所司代屋敷は二条城北一帯の広大な敷地を持ち,上屋敷・堀川屋敷・千本屋敷などからなる。この石標は所司代屋敷の跡を示すものである。
所在地 上京区猪熊通丸太町下る西側(旧待賢小学校前)
位置座標 北緯35度01分01.4秒/東経135度45分02.5秒(世界測地系)
建立年 1959年
建立者 京都市
寸 法 高106×幅18×奥行18cm
碑 文
    [東]
    京都所司代跡
    [西]
     昭和三十四年三月 京都市
調 査 2002年2月6日  (「KA061 京都所司代跡 – 京都市」より)]

カメラ西南西方向・フェンス内に京都所司代屋敷跡碑があり、左側に駒札があります。

[所在地 上京区丸太町通大宮東入南側
位置座標 北緯35度01分02.2秒/東経135度44分57.7秒(世界測地系)
建立年 (大正4年)
建立者 (京都市教育会)
寸 法 高102×幅19×奥行18cm
碑 文
    [北]
    東猪熊通西日【以下未確認】
    所司代屋敷址
    南竹屋町通北丸【以下未確認】
    [南]
    【未確認】
    [東]
    寄附者 浅田政
調 査 2002年2月5日  (「KA025 京都所司代跡 – 京都市」より)]

カメラ南方向に上記碑があります。

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