会津藩公用方京都屋敷跡

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[文久2年(1862年)閏8月に容保は京都守護職となり、更に新撰組を麾下に置いて(新撰組は、その後会津戦争まで会津藩の隷下にあった)会津藩士ともども尊攘派志士の取り締まりや京都の治安維持を担った。文久3年、友好関係にあった薩摩藩と連携して、朝廷に強い影響力を持っていた長州藩八月十八日の政変の政変で追放する。その後に行われた参預会議では、薩摩藩主・島津久光が提案する公武合体論に賛同するなどしたが、久光と将軍後見職徳川慶喜の対立によって会議は瓦解した。
当時、容保は京都守護職を退いていたが、会議崩壊後に復職し、容保の実弟で京都所司代に任命された松平定敬桑名藩主)、禁裏御守衛総督に任命された徳川慶喜と連携して、政局を動かすほどの立場となった(一会桑政権)。一方で、西南雄藩の国政参加も阻止した為、これまで友好関係にあった薩摩藩とも対立するようになった。元治元年8月、昨年追放された長州藩が挙兵した為、会津藩も出陣して京都で睨み合いとなる(禁門の変)。会津藩は蛤御門で長州藩兵と戦い、敵の突破を阻止した。後に容保は、会津藩を頼りとしている旨が記された「御宸翰(ごしんかん)」を孝明天皇より賜った。
変後、長州藩の処分を求めて、二度の長州征伐を主導した。完全な武力討伐となった第二次長州征伐では京都の守備を担当する。しかし、出兵した幕府軍は各地で長州軍に撃破され、さらに将軍徳川家茂大阪城で病没する事態に見舞われる。不利を判断した徳川慶喜によって停戦となったが、征討側の城と領土が逆に占領されるなど事実上の敗戦となった。慶応2年12月(1867年1月)に孝明天皇が崩御、慶応3年10月14日の大政奉還により、江戸幕府が消滅。
慶応3年12月9日には薩摩藩・尾張藩越前藩土佐藩芸州藩の五藩による政変が起こり、王政復古の大号令が発令されて新政府が誕生した。従来の親幕府派であった公家が排除され、王政復古前に復権した長州藩が新政府に加わるなど、今度は会津藩が追放される形となり、大阪城に退いた。そのやり方は皮肉にも、かつて長州藩を追放する為に起こした八月十八日の政変と同じ物であった。
慶応4年、鳥羽・伏見の戦い戊辰戦争)が勃発すると、桑名藩や旧幕府軍とともに薩長を中心とする新政府軍と戦ったが敗北。この戦の結果、朝廷は会津藩を「朝敵」とした。その後の東北戦線において、会津藩は奥羽越列藩同盟の支援を受け、庄内藩と会庄同盟を結ぶなどして新政府軍に抵抗したが、会津若松城下での戦い(会津戦争)に敗北して降伏した。  (wikipedia・会津藩#戊辰戦争より)]

手代木勝任
[手代木 勝任(てしろぎ(てしろき) かつとう)は会津藩士・佐々木源八の長男として生まれ、源八の実兄で、百石取りの手代木勝富の養子となった。京都見廻組組頭である佐々木只三郎、隊員であった佐々木源四郎は実弟。
会津藩主松平容保が京都守護職を務めていた際、手代木は公用人として京に赴任し、京都町奉行や京都所司代、新選組の指揮にあたった。元治元年には京都定詰公用人・御聞番御内用兼務となり、容保の名代として参内を行うこともあった。この際徳川慶喜から賞賜を受け、金、服地を賜っている。また才幹を認められ、幕府への出仕を求められた。
鳥羽・伏見の戦いの後、和歌山から海路会津に戻り、奥羽越列藩同盟のために諸藩との交渉を行った。会津戦争において会津若松城に篭城。若年寄に昇進した。開城の際、手代木は藩命により秋月悌次郎とともに城を脱出。米沢藩に赴き、降伏の仲介を依頼し、官軍首脳の板垣退助伊地知正治との降伏交渉を行なった。
戦後は会津藩士のうちでまっさきに東京に召喚された5名のうちの一人となっており、10月17日に東京に護送された。投獄された後に小倉藩邸にお預けとなる。明治2年(1869年)6月に高須藩への永のお預けとなり、7月には高須にうつっている。高須藩主松平義勇は容保の実弟であり、格別に厚遇されたという。明治4年9月には高須藩が尾張藩と合併したために尾張藩に預け替えとなり、12月には青森県の親類への預けとなる。明治5年(1872年)2月6日に赦免された。
4月16日、青森県庁より呼び出され、中央政府への任官を求められる。手代木は旧主容保に伺いを立ててからお受けすると返答し、江戸で容保と面会した。容保はこれを快諾し、前途を祝す歌を贈っている。5月には左院少議生となり、その後は香川県高知県の各権参事を歴任し、明治11年(1878年)には岡山区長を勤めた。この間、福島県知事の内命を受けるが断っている。また困窮した会津松平家のため、20年間俸給の半ばを割いて送金していたという。明治37年(1904年)、岡山市で没した。  (wikipedia・手代木勝任より)]

[「今更ですが手代木直右衛門のこと | 岡山新選組の新八参上のブログ」に『同年12月16日三女下枝京都下立賣の副邸に埋生る』と記述されていますので、手代木勝任は会津藩公用方京都屋敷を住居地としていたと思われます。]

手代木勝任について – 戊辰戦争後の幽囚時代を中心に 中西達治

国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863])」(絵図四つ切左上、千本御屋敷左上に会津と描かれています。)

国際日本文化研究センター – [大成京細見繪圖 : 洛中洛外町々小名](慶應4・1868年)」(絵図四つ切左上、御所司代千本屋敷の左上に会津ヤシキが描かれています。]

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(明治元年・1868年)」(絵図四つ切左上、千本御屋敷(元所司代千本屋敷)左上にあった会津ヤシキは無くなっています。)

カメラ位置は下立売/千本通交点で、カメラ南東方向が会津藩公用方京都屋敷跡になります。