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佐賀鍋島藩屋敷跡
[鍋島家は,肥前国佐賀(佐賀県)で35万石余を与えられた外様大名。元禄初年(1688~97頃)まではこの地に藩邸があったが,元禄14年(1701)までに烏丸通四条下る西側へ移転した。この石碑は,佐賀藩邸の跡を示すものである。
所在地 下京区四条通堺町通南東角
位置座標 北緯35度00分13.0秒/東経135度45分50.5秒(世界測地系)
建立年 1991年
建立者 京都佐賀県人会
寸 法 高125×幅20×奥行20cm
碑 文
[北]
佐賀鍋島藩屋敷跡
[西]
平成三年二月
京都佐賀県人会建之
[東]
佐賀県知事香月熊雄書
調 査 2006年9月5日 (「SI059 佐賀鍋島藩屋敷跡 – 京都市」より)]
「佐賀鍋島藩屋敷跡(江戸時代初期) – Google Map 画像リンク」
[幕末の佐賀藩は,藩財政の窮乏と英国艦船の来訪等により藩政改革の必要に迫られ,藩主鍋島斉正(閑叟,1814~71)は財政強化と軍事力の再編に尽力した。佐賀藩は雄藩として公武合体派の指導的な役割を果たし,斉正は福井藩主松平春岳(慶永)らとともに一橋慶喜(1837~1913)を擁立して改革派藩主連合の一翼を担った。佐賀鍋島藩の藩邸ははじめ堺町通四条下るにあったが,幕末にいたりこの地に移された。この石標は幕末期の藩邸跡を示すものである。
所在地 上京区上長者町通智恵光院東入北側
位置座標 北緯35度01分25.1秒/東経135度44分05.1秒(世界測地系)
建立年 1991年
建立者 京都佐賀県人会
寸 法 高131×幅25×奥行25cm
碑 文
[南]
佐賀鍋島藩屋敷跡
[東]
平成三年十月建之
京都佐賀県人会
会長 中尾芳雄
[西]
佐賀県知事井本 勇書
調 査 2002年2月5日 (「KA048 佐賀鍋島藩屋敷跡 – 京都市」より)]
「佐賀鍋島藩屋敷跡(幕末) – Google Map 画像リンク」
[鍋島藩(佐賀藩)は幕末、軍政改革について、文久3年(1862年)9月と10月に評議を行い、従来の「与私」・「備」体制を解体して洋式銃砲隊の編成を指向した。しかし第一次長州戦争で家臣団編成の不備を体験し、慶応元年(1865年)に実戦に即したの軍政改革を行った。
第二次長州戦争では筑前まで出陣したが、実戦を体験しなかった。慶応2年(1866年)から3年(1867年)にかけて兵力の増強を図ったが、これは長州藩などが農(商)隊を編成したのに対し、佐賀藩では侍・手明鑓・足軽の次男・三男からの増強を図り、家臣団による統制力を保ったまま軍事力を高めたことに特徴があった。
このように一貫して当時の日本における産業革命を推進してきた佐賀藩は、パリ万国博覧会 (1867年)に出展するなど、日本有数の軍事力と技術力を誇ったが、中央政局に対しては姿勢を明確にすることなく、大政奉還、王政復古まで静観を続けた。また、藩士の他藩士との交流を禁じ、国内でも珍しい「鎖国藩」といわれた。しかし1867年には、藩主鍋島直大が新政府から北陸道先鋒に任命されて、佐賀藩兵も戊辰戦争に参加するために東上、江戸における上野戦争などで戦い、その結果、明治政府に多数の人物が登用された。明治維新を推進させた人物を輩出した藩を指す薩長土肥に数えられ、副島種臣、江藤新平、大隈重信、大木喬任、佐野常民らが活躍した。また田中久重等、他藩の有能な人材を積極的に重用し、日本の近代化に貢献した。だが、江藤新平と島義勇は明治7年(1874年)に佐賀の乱を起こし処刑されている。 (wikipedia・佐賀藩より)]
「大名家の使者と近世京都 – 佐賀藩鍋島家の事例を素材に – 笹部昌利」(四条烏丸下ル藩邸時代の嘉永元年(一八四八) 、孝明天皇の女御入内に際する祝儀の使者)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863])」(絵図中央下・四条烏丸下ル西側に鍋島と描かれています。)
「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(成立西暦 1868年)」(絵図四つ切左上・千本御屋敷右上方向、中立売通、上長者町通、日暮通、裏門通(智恵光院通)一画に鍋島屋敷と描かれています。また、上長者町通南側にも禍嶋と記述されています。)
カメラ東南東方向が江戸時代初期の佐賀鍋島藩屋敷跡碑です。
カメラ北方向が幕末の佐賀鍋島藩屋敷跡碑です。