光照院門跡(持明院仙洞御所跡)

マーカーは光照院門跡です。

国立国会図書館デジタルコレクション – [洛中絵図・洛外絵図]. [2]」(コマ番号3/5・絵図中央・妙顕寺上に光照院宮が描かれています。)

光照院門跡
[新町通寺之内下ル西側、安楽小路町にある浄土宗知恩院派の門跡寺院で世に「常盤御所」と称する。
 開山後伏見天皇の皇女進子内親王(ますこないしんのう)で、光厳天皇光明天皇の妹宮にあたる。宮の誕生の翌年、延元元年(建武三年・一三三六)に後伏見上皇がなくなり、その後兄宮は光厳上皇・光明天皇として北朝の君に擁立された。
 南北朝の戦乱の世に進子内親王は幼少の頃より仏門に入る決意を強められ、一〇歳になるまでの数年を播磨路の各地の仏刹で修行を続けられた。そして二十二歳の時に泉涌寺の無人如導によって落飾され、名前も自本覚(じほんかく)公と改められた。この時、室町一条に一宇を興したのが光照院の起りと伝えられている。
 その後、宮が三十三歳の時には天台浄土の四宗の奥義を究め、光照院を四宗兼学の寺とされた。
 寺は応仁、文明の乱で焼失したが、文明九年(一四七七)頃に後土御門天皇から安楽小路の持明院殿跡に寺地を賜わることになった。それが現在の光照院の地である。
 その後、代々皇族出身の尼公が法灯を継ぎ、光格天皇の御代には「常盤御所」の称号を賜わった。明治維新後、変遷が激しかったが、大正以降、朝野の外護を得て堂宇の再建が行われた。
本来は四宗兼学であったが、明治六年(一八七三)から浄土宗に改められ、また開山の宮が花の道に堪能であったので、代々の宮も花の道に通じ、ついに光照院を家元とする華道常磐未生流が大成され今日に至っている。  (「光照院 尼門跡寺院、皇室ゆかりの寺宝 – 京都非公開文化財 2015秋の .」より)]

持明院仙洞御所跡
[持明院とは藤原基家(1132~1214)の邸宅。祖父基頼(1040~1122)が建立した持仏堂の名に由来する。基家の娘陳子(北白河院,1173~1238)が後高倉上皇の妃だったことから,持明院は後高倉上皇(1179~1223)・北白河院,後堀河上皇(1212~34)の御所となった。その後,後堀河第二皇子後深草天皇(1243~1304)系統の上皇御所となるが,文和2(1353)年2月に炎上して荒廃した。この石標はその御所跡を示すものである。
所在地 上京区新町通上立売上る西側(光照院門跡・恵聖院前)
位置座標 北緯35度01分57.7秒/東経135度45分20.8秒(世界測地系)
建立年 1998年
建立者 光照院門跡田中澄俊・恵聖院門主中島真栄
寸 法 高151×幅25×奥行18cm
碑 文
[北]
持明院仙洞御所跡
[南]
平成十年九月吉日
[西]
光照院門跡 田中澄俊
恵聖院門主 中島真栄
[北]
東大寺別当記之
調 査 2002年2月6日  (「KA051 持明院仙洞御所跡 – 京都市」より)]

光照院門跡(常磐御所) – Google Map 画像リンク

カメラ西方向が光照院門跡山門で、右手道路沿いに持明院仙洞御所跡碑があります。