マーカーは出町妙音堂です。
「国立国会図書館デジタルコレクション – [洛中絵図・洛外絵図]. [2]」(コマ番号3/5・絵図四つ切左上、今出川大原口左の伏見殿下屋敷地に出町妙音堂(妙音弁財天)が祀られていたようです。)
出町妙音堂(妙音弁財天)
[鴨川に架かる出町橋の西詰,買い物に来た人々の信仰を得ているのが,出町の妙音弁財天です。六角堂には弘法大師(空海)筆と伝える妙音弁財天の画像が祀られています。
この画像は北朝の崇光天皇から皇子で伏見宮家の始祖となられる栄仁(よしひと)親王へ伝えられ,伏見殿内に建立されたのが始まりです。江戸時代になって14代貞建(さだたけ)親王の時,宮家の移転により河原町今出川下る東側に遷座しました。18代貞敬(さだよし)親王によって邸内が一新され,妙音堂も改築され,庶民の参拝も許されるようになりました。
明治になって一旦東京の宮邸へ移されますが,明治34年,地元の人々の請願により旧宮邸に近い現在の地に鎮座されるところとなりました。 (「京都市上京区役所:上京区の史蹟百選/妙音弁財天」より)]
[ここは妙音弁財天とも呼ばれます。弁財天とは、古代インドの河神に由来し、川音の連想より音楽神とされます。そのためか古より歌詠、音楽、芸能上達などの信仰を集めてきました。日本では奈良時代に弁財天信仰が起こり、水に関わる場所に祀られることが多いのです。今も歌舞伎役者をはじめ、多くの芸能者もよくお詣りされます。
出町妙音堂の歴史は鎌倉時代にさかのぼり、本尊は空海の手になるという青龍弁財天画です。永く伏見離宮内に祀られてきましたが、伏見邸の移転で、江戸中期に遷座されました。維新後東京に遷りましたが、明治中期、この地に六角の妙音堂が建てられて戻り、いまは相国寺の塔頭・大光明寺の飛地境内なのだそうです。ここにも日本古来の神仏習合のかたちや明治の廃仏棄釈の影響が見られます。
妙音堂のある町の名は青竜町といいますが、中国の神話に、北の玄武、南の朱雀、西の白虎、東の青龍という四神がいます。天の四方を司る霊獣され、平安京はその四神に守られた四神相応の地として都に選ばれました。諸説あるようですが、北は船岡山、南は巨椋池、西は山陰道、東は鴨川に囲まれた都なのです。鴨川は青龍に見たてられ、その名を町の名に残しています。 (「かも茶今昔物語 – コラム・お知らせ|暮らす旅 京都」より)]
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カメラ南方向が出町妙音堂(妙音弁財天)参道です。