土御門殿(藤原道長邸)跡

マーカーは土御門殿(藤原道長邸)跡案内板です。

土御門殿(藤原道長邸)跡
[土御門殿(つちみかどどの)は、源雅信によって建設された、寝殿造の邸宅。別名を京極殿、また上東門第(内裏の上東門に至る土御門大路に面しているため)とも称した。平安京の左京一条にあり、現在の京都御所敷地内に該当する。雅信の娘源倫子従三位左京大夫藤原道長が結婚する際に道長を住まわせ、雅信の死後に道長に継承されてその邸宅となった。道長の長女・一条天皇中宮藤原彰子が里邸として、ここで敦成親王(後の後一条天皇)と敦良親王(後の後朱雀天皇)を出産、その様子は『紫式部日記』に詳しい。なお後に彰子が女院となる際、別名の上東門第にちなんで院号を上東門院とした。彰子の妹藤原嬉子もここで後冷泉天皇を出産、後一条、後朱雀、後冷泉ら三代の天皇の里内裏ともなった、御堂関白と称された道長家の栄華を象徴する邸宅であった。また『御堂関白記』によれば、長和4年(1015年)北宋朝から孔雀が朝廷に届き、これを時の三条天皇が道長に下賜し、道長は土御門殿で飼っていたという。長和5年(1016年)に、火事で焼失するが、諸国の国司たちによって届けられた屋敷再建の品物によって、以前より立派な屋敷が再建された。以後、東三条殿と並ぶ御堂流摂関家当主の拠点として機能した。  (wikipedia・土御門殿より)]

[土御門殿(藤原道長邸)跡の範囲は寺町通の西、富小路通の東で、上長者町通の南、出水通の北の範囲内にあり、京都御所内としては、清和院門筋の南、大宮御所及びその東部に当たる。  (「国立国会図書館デジタルコレクション – 土御門殿・(藤原道長の邸第)/1255」より)]

土御門邸跡 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は京都御苑清和院御門内で、カメラ西北西方向・公園灯の間に土御門第跡の案内板があります。

土御門第跡の案内板前のカメラです。

藤原道長
[藤原 道長(ふじわら の みちなが)は平安時代中期の公卿従一位摂政太政大臣准三后。京都生まれ。藤原兼家の五男(四男という説もある)で、母は摂津守藤原中正の娘・時姫。同母の兄姉に藤原道隆藤原道兼藤原超子三条天皇母)・藤原詮子一条天皇母)らがいる。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。父の兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡子藤原伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが道長は三条天皇とは深刻な対立を生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の藤原頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には三女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」と驚嘆された。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けている。
道長は藤原北家の全盛期を築き、摂関政治の崩壊後も彼の子孫(御堂流)のみが摂関職を代々世襲し、本流から五摂家九清華のうち三家(花山院大炊御門醍醐)を輩出した。
「一家立三后」
寛仁2年(1018年)3月、後一条天皇が11歳になった時、道長は三女の威子を女御として入内させ、10月には中宮となした。実資はその日記『小右記』に、「一家立三后、未曾有なり」と感嘆の言葉を記した。威子の立后の日(10月16日(11月26日))に道長の邸宅で諸公卿を集めて祝宴が開かれ、道長は藤原実資に向かって即興の歌「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(「この世は 自分(道長)のためにあるものだ だから満月が欠けることもない」という意味)を詠んだ(『小右記』、原文漢文)。実資は丁重に返歌を断り、代わりに一同が和してこの「名歌」を詠ずることを提案し、公卿一同が繰り返し何度も詠った。この歌は道長の日記『御堂関白記』の、この宴会についての記述の中には記されていないが、道長に批判的な実資の日記に書き残されて後世に伝えられることになった。
法成寺の造営
晩年は壮大な法成寺の建立に精力を傾けた。造営には資財と人力が注ぎ込まれ、諸国の受領は官へ納入を後回しにしても、権門の道長のために争ってこの造営事業に奉仕した。更に道長は公卿や僧侶、民衆に対しても役負担を命じた。道長はこの造営を通じて彼らに自らの権威を知らしめると同時に、当時の末法思想の広がりの中で「極楽往生」を願う彼らに仏への結縁の機会を与えるという硬軟両面の意図を有していた。『栄花物語』は道長の栄耀栄華の極みとしての法成寺の壮麗さを伝えている。道長はこの法成寺に住んだが多くの子供たちに先立たれ、病気がちで安らかとはいえなかった。「法成寺址、京都市上京区荒神口通寺町東入北側」・wikipedia-photo
国宝・御堂関白記
道長の33歳から56歳にかけての日記は『御堂関白記』(『法成寺摂政記』)と呼ばれ、自筆本14巻、書写本12巻が京都陽明文庫に保存されている。誤字・当て字が随所に散らばり、罵言も喜悦の言葉も素直に記してある所を見れば、大らかで直情径行な道長の気性がよく分かる。また正妻源倫子のことをすべて「女房」と表現しており、「女房」という言葉を現代語と同様の意味で用いていることが注目される。当時の政治や貴族の生活に関する超一級の史料として、1951年(昭和26年)に国宝に指定された。2011年5月、ユネスコ記憶遺産への推薦が決定した。
文学
文学を愛好した道長は紫式部和泉式部などの女流文学者を庇護し、内裏の作文会に出席するばかりでなく自邸でも作文会や歌合を催したりした。『源氏物語』の第一読者であり、紫式部の局にやってきてはいつも原稿の催促をしていたといわれている(自分をモデルとした策略家の貴族が登場していることからそれを楽しみにしていたとも言われる)。
藤原道長・wikipedia-photo  (wikipedia-藤原道長より)]

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