京都御所

マーカーは京都御所・紫宸殿です。

Google Earthで街並散歩(日本編)の京都御所関連ページ – 「京都御所内案内」、「猿が辻」、「道喜門

京都御所宮内庁ホームページ」 – 「施設の概要図

京都御所
[京都御所(きょうとごしょ)は、京都府京都市上京区にある皇室関連施設。14世紀から明治2年(1869年)までの間の「内裏(禁裏)」、すなわち歴代天皇が居住し儀式・公務を執り行った場所である。現在は宮内庁京都事務所が管理している。
京都御所に隣接して京都大宮御所仙洞御所がある。
平安遷都延暦13年・794年)時の内裏は、現在の京都御所よりも1.7キロ西の千本通り沿いにあった。現在の京都御所は、もと里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つであった土御門東洞院殿の地である。南北朝時代(14世紀半ば)から北朝側の内裏の所在地として定着し、明徳3年(1392年)の南北朝の合一以後、ここが正式の皇居となって明治2年(1869年)、明治天皇東京行幸時まで存続した。明治以降は京都皇宮(きょうとこうぐう)とも称される。
土御門東洞院殿は、元弘元年(元徳3年・1331年)、後醍醐天皇京都を脱出した後に鎌倉幕府が擁立した光厳天皇がこれを里内裏として以降、明治天皇の東京行幸に至るまで約550年間にわたって使用され続けた内裏である。当初は一町四方の敷地だったが、足利義満によって敷地が拡大され、その後織田信長豊臣秀吉による整備を経て現在の様相がほぼ固まった。内裏は江戸時代だけでも慶長度(1613年)、寛永度(1642年)、承応度(1655年)、寛文度(1662年)、延宝度(1675年)、宝永度(1709年)、寛政度(1790年)、安政度(1855年)と8回も再建されており、このうち慶長度と寛永度は旧殿を取り壊しての建て替え、それ以外は火災焼失による再建となっている。特に寛政度の再建は、裏松光世による平安内裏の考証を多く取り入れた復古様式となった。現存の内裏は幕末嘉永7年(1853年)に火災で焼失したのち、安政2年(1855年)に、寛政内裏の様式をほぼ踏襲して再建されたもので、安政内裏と呼ばれている。なお、南朝と呼ばれることになる大覚寺統の天皇の御所は二条富小路内裏であった。現代の京都御所は土御門東洞院内裏そのものではなく、土御門東洞院内裏を基に拡充され、幕末の慶應年間に今日の敷地面積が確定したものである。
1877年(明治10年)、東京の皇居に移っていた明治天皇が京都を訪れた際、東幸後10年も経ずして施設及び周辺の環境の荒廃が進んでいた京都御所の様子を嘆き、『京都御所を保存し旧観を維持すべし』と宮内省(当時)に命じた。
明治から大正にかけ、内侍所(賢所)や対屋(女官宿舎)などの建物が撤去されたが、1945年(昭和20年)には、総建築面積の半数近くが建物疎開(空襲による類焼防止)の名のもとに解体された。また、1954年(昭和29年)には、近隣で打ち上げられた花火が飛来して小御所が焼失している。その後1970年代前半にかけて、焼失した小御所や戦時中に解体された渡廊下などの一部が復元され、現在に至っている。
諸門
京都御所は敷地の四方を築地塀(延長は東西約250メートル、南北約450メートル)で囲まれている。築地塀は5本の筋の入った、もっとも格式の高いもので、計6か所の門がある。すなわち、南面には建礼門、北面には朔平門、東面の南寄りに建春門、西面は南から北へ宜秋門、清所門、皇后門である。これらの門のほかに、穴門という、屋根のない入口が12か所ある。鬼門にあたる敷地の北東角では、築地塀がそこだけ凹んでおり、「猿ヶ辻」と称されている。名称の由来は、ここに魔除けのために日吉山王社の神の使いとされる猿を祀ることによる。

建礼門(南面)・wikipedia-photo

朔平門(北面・https://goo.gl/maps/BXChFm28CgB2)・wikipedia-photo、建春門(東面・https://goo.gl/maps/L6CwJ6ztHJo)・wikipedia-photo、宜秋門(西面南・https://goo.gl/maps/jwn6wevVhEk)・wikipedia-photo、清所門(西面中・https://goo.gl/maps/J2tkEMMQzRS2)・wikipedia-photo、皇后門(西面北)・wikipedia-photo、猿が辻・wikipedia-photo

京都御所承明門・wikipedia-photo

京都御所正殿の紫宸殿・wikipedia-photo

ウィキメディアコモンズには、京都御所の画像またはその他のファイルが含まれています。 (wikipedia・京都御所より)]

京都御所平面図(「オープンストリートマップ」より。)

広重画『東海道五十三次(狂歌入東海道) 大尾 京 内裏』 「おもい立 さい先よしと いそ五十路 こえてみやこを けふみつの空 紅翆亭都子」(commons.wikimedia)

京都御所資料リンク
都名所図会」・「巻之一 平安城再刻 内裏之図 (御所)

拾遺都名所図会」・「巻之一 平安城 公卿拝賀参内躰 (参内・一枚目)」、「巻之一 平安城 元日参内 (参内・二枚目)
公卿拝賀参内躰 (参内)(拡大図)

[公卿拝賀参内躰/続千載民やすく国遊たかなる御代なれば君がちとせを誰か祈らぬ一条内大臣
九重天上来儀鳳
五色雲中拝袞龍]
元日参内 (参内)(拡大図)

[元日に檜垣の茶屋の内裏へ入けるを見て狂歌をよめる
初空にひがきの茶屋の朝けぶり竈賑ふ其一ツなり]

都林泉名勝図会」・「巻之一 七夕蹴鞠 (蹴鞠)」(図会の解釈お勧めサイト)、「巻之一 蹴鞠解説

都名所画譜」・「巻之下 皇居 (御所)

年中行事大成. 巻之1-4 / 速水春暁斎 画図」・「白馬御節会之図」(1-26)、「其二」(1-27)、白馬御節会解説-1・左ページ中程より(1-29)、白馬御節会解説-2(1-30)[wikipedia・白馬節会]、「三月三日 鶏難(とりあわせ)の図」(3-9)、鶏会(とりあわせ)解説・左ページ中(3-8)[wikipedia・闘鶏]

伊勢参宮名所図会」・「巻之1 斎宮群行」(1-10)

[斉宮群行
昔大神宮の御杖の代として、内親王を斉宮に立て給ふに三年の間内裏及び野之宮に祓禊して、都より伊勢に趣き給ふを斉宮群行といふ。是其図也。
故に此書の端に置といへども、尚事実は下の斉宮村の条に、委曲(ツブサ)に記せり。  (「http://www.umesatoclub.com/~mojiquiz/PDF/Isemeisyo/1/1-02.html」より)]
[群行(ぐんこう)は、伊勢神宮斎宮(斎王)の京都から伊勢国の斎宮御所への下向、またはその発遣の儀式、群行の儀(ぐんこうのぎ)のことである。群行は、斎王に卜定された内親王または女王が初斎院に入ってから数えて3年目の秋9月に、伊勢神宮の神嘗祭に対する奉幣使の差遣(さけん)に併せて行われる例で、宮中における群行の儀の後、葱華輦(そうかれん・通常は天皇・皇后だけしか乗れない特別な輿)に乗り、百官に見送られて伊勢へ進発、一行は斎宮を始め、長奉送使以下の官人・官女およそ500人に及ぶ大行列であった。  (wikipedia・群行より)]

京都御所 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は京都御所・建礼門前です。