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「国立国会図書館デジタルコレクション – [洛中絵図・洛外絵図]. [2]」(コマ番号3/5・絵図中央に妙覺寺が描かれています。)
妙覚寺
[妙覚寺(みょうかくじ)は、京都府京都市上京区にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は具足山。塔頭が三院ある(善明院、實成院、玉泉院)。妙覚寺は1378年(永和_(日本)4年)、日実によって創建された。日実はもと妙顕寺の僧であったが、教義や後継問題をめぐる寺内の意見対立のため同寺から離脱し、小野妙覚の外護により、四条大宮に妙覚寺を建立した。実質的な創立者は日実であるが、妙覚寺では日像を開山、日実を4世としている。寺は1466年(寛正7年)、近隣の本覚寺と合併し、寺域を広げる。1483年(文明_(日本)15年)には足利義尚の命により、二条衣棚(現・京都市中京区)に移転した。
1536年(天文_(日本)5年)の天文法華の乱際に寺は焼失し、堺に避難した。その後、1542年(天文11年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、妙覚寺は1548年(天文17年)、二条衣棚の旧地に再建された。
1582年(天正10年)の本能寺の変の際、織田信長の嫡男織田信忠は妙覚寺を宿舎としていた。明智光秀の謀反を知った信忠は寺を出て、明智勢を討つべく二条御所へ向かうが、果たせず自害する。妙覚寺もこの時に焼失した。寺は1583年(天正11年)、豊臣秀吉の命により、現在の地に移転している。1595年(文禄4年)、妙覚寺21世の日奥は、不受不施の立場から、秀吉が主催した方広寺大仏の千僧供養への出仕を拒み、秀吉に「法華宗諌状」を提出した。寺は1788年(天明8年)、天明の大火により焼失するが、その後再建されている。妙顕寺、妙覚寺、立本寺の三寺はいずれも山号を具足山と称し、「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれている。
妙覚寺山門(wikipedia-photo)
祖師堂・(wikipedia-photo)
(wikipedia・妙覚寺_(京都市)より)]
妙覚寺境内図(「織田信長の京都の定宿だった「妙覚寺」 ~第52回京の冬の旅 ..」より)
「妙覚寺の大門としだれ桜 ( 京都府 ) – ココロ、京都 – Yahoo!ブログ」
妙覚寺資料リンク
「都名所図会」・巻之一 平安城再刻 妙覚寺
妙覚寺(拡大図)
妙覚寺山門前のストリートビューです。
妙覚寺本堂前のストリートビューです。
妙覚寺庫裏前のストリートビューです。