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「国立国会図書館デジタルコレクション – [洛中絵図・洛外絵図]. [2]」(コマ番号3/5・絵図中央に宝鏡寺が描かれています。)
宝鏡寺(人形寺)
[宝鏡寺(ほうきょうじ)は、京都市上京区にある臨済宗の尼門跡寺。山号は西山(せいざん)。通称人形寺(にんぎょうでら)。普段は拝観できないが、定期的に特別拝観が行われる。
歴史
光厳天皇皇女の華林宮惠厳(かりんのみやえごん)は、無学祖元(鎌倉円覚寺開山)の弟子にあたる尼僧・無外如大が京都の五辻大宮(現・京都市上京区)に開いた尼五山筆頭景愛寺の6代寺持であった。 室町時代の応安年間(1368年 – 1375年)、伊勢の二見浦にて漁網に掛かった聖観世音菩薩を景愛寺子院の建福尼寺に安置し、建福寺を改めて宝鏡寺と称した。これには、足利義政の娘が文亀年間(1501 – 1504年)に再興したとする別伝もある。
足利義満の時代、隣地には小川御所があったとされ、義満母の紀良子、義満実弟の満詮の別宅だったというが、応仁の乱(1467年-1477年)の折、戦禍から後土御門天皇、足利義政室の日野富子が逃げ込んでいた。後に後嗣を巡る争いで御殿は焼かれてしまい、跡地は宝鏡寺に取り込まれた。
正保3年(1646年)、後水尾天皇皇女の理昌女王(久厳尼)が入寺して以降、代々の皇女が入寺する尼門跡寺院となり、土地の名前から「百々御所」(どどのごしょ)とも呼ばれたが、天明8年(1788年)焼失。以降再建された現在の建物群は尼門跡寺院の構成をよく伝えている[6]。
人形
寺へ入った尼僧には御所より数多くの人形が贈られたといい、孝明天皇ご遺愛の人形などを保存して供養をしていることから人形寺の通称がある。境内には人形の供養と京人形の振興を目的として人形塚が建てられており、御所人形像と武者小路実篤の歌が刻まれている。
人形塚・wikipedia-photo (wikipedia・宝鏡寺より)]
[臨済宗の尼門跡寺院。書院は寛政10年(1798)の上棟で,御座の間・次の間等の諸室を配す。襖絵は天保4年(1833)に円山派の絵師により描かれた。文政13年(1830)には本堂・使者の間・玄関が建てられ,表門もこの時期のものとみられる。その後弘化4年(1847)に阿弥陀堂が御所の建物の古材を用いて建てられた。これらは尼門跡寺院の構成をよく伝えた上質な建物である。 (「京都市指定・登録文化財-建造物」より)]
「宝鏡寺門跡(百々御所) – Google Map 画像リンク」
カメラ北方向が宝鏡寺山門です。