廬山寺(紫式部の邸宅跡)

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    国立国会図書館デジタルコレクション – [洛中絵図・洛外絵図]. [2]」(コマ番号3/5・絵図四つ切左上、日光御門跡御里坊右に廬山寺が描かれています。)

    廬山寺(紫式部の邸宅跡)
    [廬山寺(ろざんじ)は京都市上京区にある天台系の単立仏教寺院。圓浄宗の本山。本尊阿弥陀如来。寺号は詳しくは廬山天台講寺(ろざんてんだいこうじ)と称する。紫式部の邸宅跡として知られる。
    元亀3年(1571年)、織田信長比叡山焼き討ち正親町天皇の女房奉書により免れたが、豊臣秀吉の寺町建設によって天正年間に現在地に移った。度々の火事のため、現在の堂宇は寛政6年の再建になるものである。1965年(昭和40年)に考古・歴史学者角田文衞により紫式部邸跡とされた。御黒戸四箇院のうち現存する唯一の摂家門跡である。
    境内
    ●本堂 – 光格天皇の命による仙洞御所よりの移築と伝える。本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、右脇侍勢至菩薩、左脇侍観音菩薩)。
    ●元三大師堂 – 参道正面に位置する。本尊は元三大師(良源)。他に毘沙門天像、薬師如来像、不動明王像などを安置する。毘沙門天は京都七福神の一つ。
    ●尊牌殿 – 本堂と同様に光格天皇の命による仙洞御所よりの移築と伝える。
    ●本堂庭園 – 源氏庭と称し、白砂とキキョウを配する。
    ●墓地 – 慶光天皇廬山寺陵をはじめ皇族の陵墓が多くある。また、豊臣秀吉の築いた史跡の御土居(wikipedia-photo)が境内東端に残る。
    廬山寺・wikipedia-photo、源氏庭・wikipedia-photo、「紫式部歌碑、めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月かな、京都市上京区廬山寺内」・wikipedia-photo  (wikipedia・廬山寺より)]

    紫式部邸宅址
    [『源氏物語』の作者紫式部(生没年未詳)の曾祖父藤原兼輔(877~933)は,正親町小路南,東京極大路東の鴨川堤の堤邸に住んでいたことから堤中納言と称された。紫式部も東北院の向いの同地に住んでいたと伝えられる。この石標はその邸宅跡を示すものである。
    所在地 上京区寺町通広小路上る東側(廬山寺内)
    位置座標 北緯35度01分27.2秒/東経135度46分05.8秒(世界測地系)
    建立年 (1965年)
    建立者 (財団法人古代学協会)
    寸 法
    碑 文
    [西]
    紫式部
    邸宅址
    調 査 2002年2月8日
    備 考 接近不可/西面以外は調査不能/建立年・建立者は『毎日新聞』昭和40年11月7日付除幕式記事による  (「KA039 紫式部邸宅址 – 京都市」より)]

    廬山寺ホームページ」、廬山寺行事外部リンク – 「廬山寺 節分

    廬山寺(紫式部の邸宅跡)資料リンク
    都名所図会」・「巻之一 平安城再刻 廬山寺・浄華院」、「巻之一 平安城再刻 廬山天台講寺 (廬山寺)解説
    廬山寺・浄華院(拡大図)

    廬山寺 – Google Map 画像リンク」、「廬山寺源氏の庭 – Google Map 画像リンク

    カメラは廬山寺のストリートビューで、カメラ東方向が廬山寺(紫式部の邸宅跡)山門です。

    ストリートビューは元三大師堂前です。

    カメラ北方向が大玄関で、カメラ西方向に鐘楼、カメラ南方向に紫式部歌碑があります。

    源氏庭前のストリートビューで、カメラ南東方向に紫式部邸宅址碑があります。

    紫式部
    [紫式部(むらさきしきぶ、生没年不詳)は、平安時代中期の女性作家、歌人。『源氏物語』の作者と考えられている。中古三十六歌仙女房三十六歌仙の一人。『小倉百人一首』にも「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」で入選。
    屈指の学者、詩人である藤原為時の娘。藤原宣孝に嫁ぎ、一女(大弐三位)を産んだ。夫の死後、召し出されて一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えている間に、『源氏物語』を記した。幼少の頃より当時の女性に求められる以上の才能で漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。54帖にわたる大作『源氏物語』、宮仕え中の日記『紫式部日記』を著したというのが通説、家集『紫式部集』が伝わっている。
    紫式部の本名は不明であるが、女房名は「藤式部」。「式部」は父為時の官位(式部省の官僚・式部大丞だったこと)に由来するとする説と同母の兄弟惟規の官位によるとする説とがある。現在一般的に使われている「紫式部」という呼称について、「紫」のような色名を冠した呼称はこの時代他に例が無くこのような名前で呼ばれるようになった理由についてはさまざまに推測されているが、一般的には「紫」の称は『源氏物語』または特にその作中人物「紫の上」に由来すると考えられている。
    紫式部の墓と伝えられるものが京都市北区紫野西御所田町(堀川北大路下ル西側)に残されている。紫式部の墓とされるものは小野篁の墓とされるものに隣接して建てられている。
    紫式部 (土佐光起筆 石山寺蔵)・wikipedia-photo、紫式部(小倉百人一首より)・wikipedia-photo、紫式部邸址(廬山寺「源氏庭」)・wikipedia-photo  (wikipedia-紫式部より)]

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