新発田藩溝口家京屋敷跡

マーカーは新発田藩溝口家京屋敷跡です。

[新発田藩戊辰戦争では、新政府側よりの立場をとろうとするも、周辺諸藩の奥羽越列藩同盟の圧力に抗しきれず、やむなく加盟した。同盟側は新発田藩を参戦させようと謀り、藩主・溝口直正を人質にとろうと試みたが、新発田藩の領民の強い抵抗に遭って阻止される。その後、新発田藩は新政府軍に合流し参戦することとなり、その結果、新発田の地は戦火から守られることとなった。ただし、この時の新発田藩の行動は越後長岡藩などからは明らかな裏切り行為と見られ、周辺地域との間にしこりを残すことにもなった。
新発田の勤王の伝統は、特に十代藩主直諒公の記した『報国説』からであるといわれる。直諒公隠居後、皇族や公家の間でも読まれたという。山崎闇斎の崎門学派の大義名分の心を述べたものである。この本が一般に読まれるようになり、藩内に勤王の根を張るに至った。相馬作右衛門の上申書にはこれまで皇室をないがしろにした将軍家の罪を上げ、先祖(家康)がいかに勲功があっても、子孫が間違ったことをするのなら、徳川家に臣節を尽くす必要はないとし、武力で自らの権勢を保持しようとするものに付けば大義名分を失するとした。藩儒寺尾文之進は5月30日の総登城の際、王事に尽くすことは歴代藩侯の遺訓である、全藩、城を枕に死すべきである、勝敗は問うところではないと主張。しかし、藩論は勤王に殉じて玉砕する方針は採らなかった。いわゆる正義党と違うのは、藩士、領民にとって、「勤王の藩」に尽くすことが大義名分なのであって、勤王を藩を超えた価値とし、ゆくゆくは藩を解消すべきと考える正義党の価値観は危険思想であった。方義隊の新保長三郎は戦後、同じ隊だった二階堂保則と口論している。物頭佐藤八右衛門は新保を「正義党ではあるけれども、御家への忠節が本である人間で、一通りの正義党の仲間には入らず、尽力した者である」と評価した。新保や庄屋九左衛門ら庄屋たちは進んで勤王思想を学び、藩の大事に進んで貢献した。  (wikipedia・新発田藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863])」(絵図中央上方向、村雲御所右下、堀川右に溝口と記述されています。)

国際日本文化研究センター – [大成京細見繪圖 : 洛中洛外町々小名](慶應4・1868年)」(絵図中央上方向・堀川右に新発田ヤシキと記述されています。)

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(明治元年・1868年)」(絵図中央上方向・元誓願寺右下、堀川右に新発田と記述されています。)

カメラ位置は東堀川通り戻り橋公園付近、竪富田町で、カメラ北東方向が新発田藩溝口家京屋敷跡になると思います。