本荘藩六郷家京屋敷跡

マーカーは本荘藩六郷家京屋敷跡です。

六郷政鑑
[六郷 政鑑(ろくごう まさかね/まさあきら)は、嘉永元年(1848年)10月3日、出羽国本荘藩10代藩主・六郷政殷の長男として誕生。文久元年(1861年)6月5日、父・政殷の死去により、家督を相続した。
文久2年(1862年)12月1日、14代将軍・徳川家茂に拝謁した。同年12月16日、従五位下兵庫頭に叙任する。慶応2年(1866年)4月15日、江戸の警備を命じられる。慶応4年(1868年)、一時的に奥羽越列藩同盟に参加したものの、脱退した。同年7月、新政府に与して、幕府方の庄内藩と戦うことになった。しかし、そもそも兵数に劣り武器も旧式などであったため、庄内藩の軍勢に敗れ、8月6日には本荘城に火を放って敗走した。政鑑らは久保田藩に避難した。同年9月11日、奥羽鎮撫総督府から見舞金3,000両を賜る。同年9月下旬、明治政府の援軍によって反撃に転じ、本荘城を奪回した。明治2年(1869年)6月12日、戊辰戦争での功績を賞されて、永世1万石を賜った。
明治2年(1869年)6月22日、版籍奉還に伴い、知藩事に就任した。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により、知藩事を解任された。  (wikipedia・六郷政鑑より)]

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(明治元年・1868年)」(絵図四つ切左上・堀川左、出水通/猪熊通左上に本庄と記述されています。)

カメラ位置は出水通/猪熊通交差点で、カメラ北西方向が本荘藩六郷家京屋敷跡になると思われます。