マーカーは此付近水戸藩邸跡の碑です。
此付近水戸藩邸跡の碑
[幕末の水戸藩主徳川斉昭(1800~60)は,藩政改革に尽力するとともに,その子一橋慶喜(1837~1913)を推す福井藩主松平春嶽(慶永)ら開明的な公武合体派の藩主と連携し,開国派の幕府主流と対立。安政の大獄では,斉昭らも処分を受けた。その後,尊攘運動が高まり,水戸藩士によって大老井伊直弼の暗殺,天狗党の乱が引き起こされた。水戸藩邸は,江戸中期までにこの地に設けられ,幕末まで続いた。この石標はその藩邸跡を示すものである。
所在地 上京区下長者町通烏丸西入北側
位置座標 北緯35度01分20.9秒/東経135度45分32.5秒(世界測地系)
建立年 1968年
建立者 京都市
寸 法 高124×幅18×奥行18cm
碑 文
[西]
水戸藩邸跡
[南]
昭和四十三年十一月 京都市
調 査 2002年2月5日 (「KA010 水戸藩邸跡 – 京都市」より)]
[此付近水戸藩邸跡
この付近、烏丸通下長者町西入北側は、江戸時代に水戸(茨城)藩邸があった所である。藩邸が置かれたのは古く、貞享三年(一六八六)の地図「旧藩々上邸箇所」に記されている。明治のはじめ藩邸が廃止された時は、敷地千三百二坪(約四千三百平方メートル)の広さであった。
水戸藩は、徳川家康の子・頼房を初代藩主とする御三家の一つで、石高は33万石。二代藩主徳川光圀は「大日本史」編集の事業をはじめ、幕末まで継続された。編集の資料を集めるため、京都にも多数の係員が派遣され、この藩邸はその拠点となり、借用資料の筆写も藩邸で行なわれた。幕末には水戸藩は尊王攘夷と佐幕とに藩論が分かれたが、ともに諸国志士の運動に大きな影響を与えた。
京都市 (「Google Map 画像リンク」より)]
「国際日本文化研究センター – 京大絵図(元禄9・1696年)」(絵図中央上方向、禁裏の左下方向に水戸殿御知行二八万石と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863])」(絵図中央上方向、禁裏の左方向に水戸と描かれています。)
「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(成立西暦・1868年)」(絵図中央上方向・御所蛤御門左に水戸屋敷が描かれています。)
カメラ北西方向に此付近水戸藩邸跡の碑と案内板があります。