二本松薩摩藩邸の碑

マーカーは薩摩藩邸跡の碑です。

二本松薩摩藩邸
[幕末薩摩藩公武合体派を推進する中心的な藩の一つとして,京都における様々な事件に関係した。藩主島津忠義の父久光(1817~87)は,文久2(1862)年に上京して,尊攘過激派らを鎮撫(寺田屋事件)。その翌年八月十八日の政変元治元(1864)年の禁門の変では,幕府会津藩などと連携して長州藩を中心とする尊攘勢力を一掃した。薩摩藩邸は,錦小路通東洞院にある本邸(錦小路薩摩屋敷)に加えて,文久3年,相国寺近くの二本松にも設けられ,新たな政治拠点となった。この石標は文久3年に新造された薩摩藩邸跡を示すものである。
所在地 上京区烏丸通今出川上る東側(同志社大学西門前)
位置座標 北緯35度01分48.1秒/東経135度45分33.9秒(世界測地系)
建立年 1968年
建立者 京都市
寸 法 高103×幅18×奥行18cm
碑 文
    [南西]
    薩摩藩邸跡
    [北西]
    昭和四十三年十一月 京都市
調 査 2002年2月5日  (「KA006 薩摩藩邸跡 – 京都市」より)]

[京・薩摩藩邸(二本松屋敷)
藩主島津氏、石高七七万石
 日本が未曽有の大混乱に陥った幕末。文久二年(一八六二)九月、薩摩(鹿児島)藩が相国寺から土地を借り受け、京都に新たな判定を造営する。
同志社大学今出川キャンパスの約三分の二を占める広大な敷地の藩邸が御所に近接して誕生した。そして、この場所は幕末京都において、薩摩藩の政治的な重要拠点となっていく。
 大政奉還の後、戊辰戦争が勃発。その直後に会津藩山本覚馬(新島襄の妻・八重の兄)は捕えられ、ここの藩邸に幽閉された。その折にまとめられた建白(通称『管見』)が、京都の近代化の指針として後に影響を与えた。
 明治時代になると、京の薩摩藩邸は京都府に接収、民間に売却された。そして人手を経て新島襄が購入した。
                 同志社大学  (「Google Map 画像リンク」より)]

薩摩藩二本松屋敷の政治的意義 ― 島津家の国事と京の拠点―笹部昌利

藩邸 – 国土地理協会

国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全」(文久3 [1863] – 絵図上方向、禁裏上方向に薩州と描かれています。)

国際日本文化研究センター – [大成京細見繪圖 : 洛中洛外町々小名](慶應4・1868年)」(絵図四つ切右上・相国寺左下に薩州屋敷が描かれています。)

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(明治元年・1868年)」(絵図中央右上・相国寺左下に錦小路西魚ヤ丁下に薩州屋敷が描かれています。)

カメラ北方向に薩摩藩邸跡の碑があります。

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