マーカーは津和野藩亀井家京屋敷跡です。
[幕末期は長州藩の隣藩だったことから、佐幕派と尊王派の間を苦慮した形となり、慶応2年(1866年)の第2次長州征伐には消極的な立場をとり、幕府軍が撤退すると、幕府が目付として残していた長谷川久三郎を長州藩に引き渡して和睦している。以降は新政府への恭順を積極的に示し、廃城令発令(1873年)に二年先立つ形となる1871年の廃藩に併せて居城三本松城の破却(民間払下)を行った。 (wikipedia・亀井茲監より)
明治になる直前の1867年(慶応3年)の新政府によるキリシタン弾圧令により(浦上教徒事件)、長崎浦上のキリスト教信者158名は各地に流罪となったが、その流刑先の一つが津和野であった。流刑者は廿日市の御船屋敷から徒歩で津和野街道を90キロメートル程歩かされ、乙女峠の光琳寺で拷問を受けた。 (wikipedia・津和野藩より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863])」(絵図上中央、新町口右に津和野と記述されています。)
「国際日本文化研究センター – [大成京細見繪圖 : 洛中洛外町々小名](慶應4・1868年)」(絵図上中央・室町通左下にツワノと記述されています。)
「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(明治元年・1868年)」(絵図上中央・室町通左下に津和野ヤシキが描かれています。)
カメラ位置は玄武公園南西端で、カメラ北東方向が津和野藩亀井家京屋敷跡になると思われます。