淀藩稲葉家京屋敷跡

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淀藩稲葉家京屋敷跡
[稲葉氏の歴代藩主の中で最も有名なのは第12代(最後)の藩主・稲葉正邦である。正邦は幕末期の動乱の中で老中を2度務め、板倉勝静小笠原長行らと共に活躍した人物である。しかしその江戸詰め中に戊辰戦争鳥羽・伏見の戦いが起こり、旧幕府軍が朝廷によって朝敵とされたため、淀城の城代は敗走する旧幕府軍に城門を開かなかった。これが鳥羽・伏見の戦いにおける旧幕府軍の敗北の一因とされ、この時期を扱った一部の時代小説には淀藩を罵倒軽蔑する記述も見える。
正邦は旧幕府瓦解時の老中であったため、新政府の命令で同年3月に謹慎処分となったが、閏4月には許されて京都警備を任されている。  (wikipedia・淀藩より)]

[稲葉家淀藩は西国に睨みを利かせる畿内随一の藩であることから、正邦も当初から幕府内での昇進が早く、会津藩桑名藩薩摩藩が同盟を結んだ頃から京都所司代となり、京都の政務を一任されていた。後に老中、さらには政事総裁として、もっぱら江戸藩邸での活動に終始する。
幕府での位置づけが高まることから、第一次・第二次長州征伐への淀藩士派兵を決定するが、田辺権大夫の強硬な反対によって断念するという一幕があり、佐幕急進派の正邦と穏健派の藩首脳部の対立は顕在化していったらしい。老中を抱える藩として鳥羽・伏見の戦いには淀城より出兵したものの、後退する旧幕府軍の入城を拒否した。藩首脳部と新政府との密約成立により新政府に恭順したのである。城代家老田辺権太夫は鳥羽・伏見の戦いの際には「江戸に滞在」していた。幕府軍の入城を拒否したのは淀藩留守居役の田辺の弟治之助か(のち幕府軍を数名入れたということを理由に切腹)。このとき、江戸で将軍の留守政権の首脳として活動していた正邦は、自らの藩が自身の決定なくして徳川家に反旗を翻すという事態に遭遇するという複雑な立場に立たされ、慶応4年(1868年)2月に老中職を辞任し、朝廷からの上洛要請に応じる事になる。だが、三島宿にて秘かに徳川慶喜から新政府への嘆願書を持っていたことが発覚し、小田原紹太寺にて謹慎を余儀なくされた。その後、新政府の許可によって身柄は京都に送られたが、閏4月5日に在国家臣の働きの功績をもって宥免された。淀藩はその後も新政府に対する恭順の姿勢を貫き、正邦ら佐幕急進派が分裂することもなかった。  (wikipedia・稲葉正邦より)]

[京都における大名火消制度は、元禄3(1600)年に畿内近国で勤める京都火消御番として開始された。その後2度の制度改革を経たのち、禁裏御所方火消を担っていた亀山藩淀藩膳所藩、大和郡山藩の4藩が、享保7(1722)年に京都火消を兼ねた京都火消役となり、その制度が確立する。これ以降は4藩が月番で勤め、後に4藩の藩主が江戸詰の役職についた場合の補充として高槻藩篠山藩が追加された。京都火消役は2藩ずつが組み合わされており、他の2藩主が帰国するのをまって在邑の2藩主が江戸へ参勤した。そして、天明大火時に藩主自らが出馬したのは亀山藩と篠山藩であり、大和郡山藩、淀藩、膳所藩、高槻藩、園部藩は家臣を出動させている。  (「京都天明大火における大名火消の実態 – 大邑潤三・塚本章宏・北原糸子」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863] )」(絵図四つ切左上・二条御城上方向、聚楽右下方向にヨドと記述されています。)

国際日本文化研究センター – [大成京細見繪圖 : 洛中洛外町々小名](慶應4・1868年)」(絵図四つ切左上・二条御城上方向、イツミ丁とシンメイ丁の間にヨトヤシキと記述されています。)

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(明治元年・1868年)」(絵図四つ切左上方向、和水丁と神明丁の間に淀屋敷が描かれています。)

カメラ位置は大宮通/上長者町通でカメラ北西方向が和水町で淀藩稲葉家京屋敷があったと思われます。