マーカーは狩野元信邸跡碑です。
狩野元信邸跡
[狩野派は、親・兄弟などの血族関係を主軸とした画家集団で、約4世紀間の長期にわたって一国の画壇に君臨したという点で、世界的にも他にほとんど例を見ないものである。
狩野派の代表的な絵師としては、室町幕府8代将軍足利義政に仕えた初代狩野正信とその嫡男・狩野元信、元信の孫で安土城や大坂城の障壁画を制作した狩野永徳、永徳の孫で京都から江戸に本拠を移し、江戸城、二条城などの障壁画制作を指揮した狩野探幽、京都にとどまって「京狩野」と称された一派を代表する狩野山楽などが挙げられる。
江戸幕府の体制が安定して以後の狩野派は、幕府の御用絵師として、内裏、城郭などの障壁画の大量注文をこなす必要に迫られた。膨大な量の障壁画の注文に応えるため、狩野家の当主は、一門の絵師たちを率いて集団で制作にあたる必要があった。そのため、狩野派の絵師には、絵師個人の個性の表出ではなく、先祖伝来の粉本(絵手本)や筆法を忠実に学ぶことが求められた。こうした時代背景から、狩野探幽以降の狩野派は伝統の維持と御用絵師としての勢力保持にもっぱら努め、芸術的創造性を失っていったという見方もある。ただ、こうした学習方法は流派形成に必要な手法であり、写生を重んじることで知られる円山四条派や琳派など他の流派でもみられ、江戸時代では一般的な学習方法だったことは留意しておく必要があろう。
芸術家の個性の表現や内面の表出を尊重する現代において、狩野派の絵画への評価は必ずしも高いとは言えない。しかしながら、狩野派が約4世紀にわたって日本の画壇をリードし、そこから多くの画家が育っていったことも事実であり、良きにつけ悪しきにつけ、狩野派を抜きにして日本の絵画史を語ることはできない。近世以降の日本の画家の多くが狩野派の影響を受け、狩野派の影響から出発したことも事実であり、琳派の尾形光琳、写生派の円山応挙なども初期には狩野派に学んでいる。
狩野派隆盛の基盤を築いた、2代目・狩野元信(1476 – 1559)は正信の嫡男で、文明8年(1476年)に生まれた。現存する代表作は大徳寺大仙院方丈の障壁画(方丈は永正10年(1513年)に完成)、天文12年(1543年)の妙心寺霊雲院障壁画などである(大仙院障壁画については、方丈竣工時の作品ではなく、やや後の年代の作とする見方が有力である)。
元信には宗信、秀頼、直信の3人の男子があったが、長男の宗信は早世したため、宗家を継いだのは三男の直信(1519 – 1592)であった。なぜ二男の秀頼でなく三男の直信に家督を継がせたのかは定かでない。直信は、道名の狩野松栄の名で広く知られ、室町から桃山に至る時代に活動した。代表作としては、大徳寺に残る巨大な『涅槃図』(縦約6m)がある。
松栄の嫡男・狩野永徳(1543 – 1590)は州信(くにのぶ)とも称し、桃山時代の日本画壇を代表する人物である。現存する代表作の一つである大徳寺聚光院方丈障壁画は永徳と父・松栄の分担制作であるが、父・松栄は方丈南側正面の主要な部屋の襖絵を息子の永徳にまかせ、自分は脇役に回っている。封建社会の当時にあっては、家門の長が主要な部屋の襖絵を描くのが常識であり、この障壁画制作時には松栄は才能豊かな永徳に家督を譲って、自身はすでに隠居の身であったと考証されている。聚光院方丈障壁画のうち、室中(しっちゅう、方丈正面中央の部屋)を飾る『花鳥図』は特に評価が高い。
狩野永徳は父の松栄(直信)に先立って48歳で没した。その後を継いだのは永徳の長男・狩野光信(1565? – 1608)と次男・狩野孝信(1571 – 1618)である。光信は、園城寺勧学院客殿障壁画などを残し、永徳とは対照的な、大和絵風の繊細な画風を特色とした。
狩野家の頭領である光信が死去した時、その子の狩野貞信(1597 – 1623)はまだ12歳の若年であったので、光信の弟である孝信が狩野派を率いることとなった。封建制度の下では、光信の長男である貞信の家系が宗家となるはずであったが、貞信が27歳で早世し後継ぎがなかったため、以後、幕末に至る狩野家の正系は孝信の子孫となっている。孝信には守信(探幽、1602 – 1674)、尚信(1607 – 1650)、安信(1613 – 1685)の3人の男子があり、この3人はそれぞれ鍛冶橋狩野家、木挽町(こびきちょう)狩野家、中橋狩野家(宗家)の祖となった。 (wikipedia・狩野派より)]
[絵師狩野派の初代狩野正信(1434~1530)の子元信(1476~1559)の邸宅がこの地に建てられ,以後,狩野家歴代がこの地に住んだと伝えられる。この石標はその邸宅跡を示すものである。なお,この附近を俗に狩野図子と呼んだ。
所在地 上京区元誓願寺通小川東入北側
位置座標 北緯35度01分43.1秒/東経135度45分17.2秒(世界測地系)
建立年 1917年
建立者 京都市教育会
寸 法 高109×幅19×奥行18cm
碑 文
[南]
此附近狩野元信邸址 旧名狩野【以下埋没「図子」カ】
[東]
昭和三年六月京都史蹟会引継
[西]
大正六年一月建之 京都市教育 (「KA027 狩野元信邸跡 – 京都市」より)]
カメラ北西方向に狩野元信邸跡碑があります。