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相国寺の子ページリンク
相国寺(洪音楼)、相国寺(経蔵)、相国寺(法堂)、相国寺(開山堂)、相国寺(方丈、庫裏)、相国寺(浴室)、相国寺(承天閣美術館)
「国立国会図書館デジタルコレクション – [洛中絵図・洛外絵図]. [2]」(コマ番号3/5・絵図中央左に相国寺が描かれています。)
相国寺
[相国寺(しょうこくじ)は、日本の禅寺。京都市上京区にある臨済宗相国寺派大本山の寺である。山号を萬年山(万年山)と称し、正式名称を萬年山相國承天禅寺(万年山相国承天禅寺、まんねんざん しょうこくじょうてんぜんじ)という。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利義満、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である。
歴史
室町幕府3代将軍・足利義満は、いわゆる「花の御所」の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを永徳2年(1382年)に発願。竣工したのは10年後の明徳3年(1392年)であった。義満は、禅の師であった天龍寺の春屋妙葩(しゅんおくみょうは、1311- 1388年)に開山(初代住職)となることを要請したが、春屋はこれを固辞。春屋の伯父であり師である高僧・夢窓疎石(1275- 1351年)を開山とするなら、自分は喜んで第2世住職になる、という条件でようやく引き受けた。足利義満が伽藍建立を発願する30年以上前に死去している夢窓疎石が開山とされているのは、このような事情による。春屋妙葩も相国寺伽藍の完成を見ずに嘉慶2年(1388年)没している。相国寺は京都最大の禅宗寺院のひとつとして、また、五山文学の中心地として栄えたが、たびたび火災に見舞われた。伽藍完成から2年後の応永元年(1394年)に全焼。義満による七重大塔も数年で焼失したが、七重大塔は全高(尖塔高)109.1m(360尺。比較資料:1 E2 m)を誇り、史上最も高かった日本様式の仏塔である。昭和4年(1929年)の依佐美送信所鉄塔(250m)竣工までのおよそ530年間、高さ歴代日本一の記録は破られなかった。足利義満没後の応永32年(1425年)に再度全焼している。応仁元年(1467年)には相国寺が応仁の乱の細川勝元方の陣地となったあおりで焼失。天文20年(1551年)にも管領細川家と三好家の争いに巻き込まれて焼失。ここまでで都合4回焼失している。天正12年(1584年)、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌(せいしょうじょうたい)が住職となり、復興を進めた。現存する法堂(はっとう)はこの時期に建立されたものである。その後も元和6年(1620年)に火災があり、天明8年(1788年)の「天明の大火」で法堂以外のほとんどの堂宇を焼失した。現存の伽藍の大部分は19世紀はじめの文化年間の再建である。
境内は京都御所の真北に位置し、同志社大学に隣接している。最盛期には東は寺町通り、西は大宮通り、南は一条通り、北は上御霊神社との境までが相国寺の寺域であった。応仁の乱による焼失後、三門と仏殿は再建されることなく、近世以降は法堂が仏殿(本尊を安置する堂)を兼ねている。
重要文化財建造物
●本堂(法堂)附 玄関廊 (wikipedia・相国寺より)]
「相国寺公式ホームページ」 – 「境内案内図」
境内案内図

相国寺資料リンク
「都名所図会」・「巻之一 平安城再刻 相国寺」、「巻之一 平安城再刻 萬年山相国承天禅寺 (相国寺)解説」
相国寺(拡大図)
「都林泉名勝図会」・「巻之一 相国寺林光院鶯宿梅 (相国寺)」、「巻之一 相国寺解説」
カメラ北方向が相国寺総門で、カメラ北西方向に勅使門があります。