マーカーは福岡藩黒田家京屋敷跡です。
[既に油小路通下立売下ル東側に京屋敷を設けていた因州鳥取藩は、文久年間(1861年-1864年)に東堀川通中立売下ル東側に広大な屋敷(因州鳥取藩京都藩邸跡)を建設している。この屋敷は南北を中立売通と上長者町通、東西を東堀川通と油小路に限る凡そ1町四方の大きなものであった。この屋敷を建設するために松之下町通が消滅している。同様なことはその北に位置している筑前福岡藩の京屋敷でも生じている。 (「薩摩藩邸跡(二本松): 徘徊の記憶」より)]
[11代藩主黒田斉溥は2歳年上の大甥・薩摩藩11代藩主島津斉彬と同様、幕府に対しては積極的な開国論を述べている。慶応元年(1865年)、藩内における過激な勤王志士を弾圧した(乙丑の獄)。しかしその後は薩摩藩と長州藩、そして幕府の間に立って仲介を務めるなど、幕末の藩主の中で大きな役割を果たしている。斉彬派だったために様々な辛苦を受けた西郷隆盛は、斉溥に助けられた一人である。弾圧事件の前後から月代を剃らなくなり、また顎鬚も伸ばし放題にした。 (wikipedia・黒田斉溥より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863])」(絵図中央上方向・堀川右、一条と中立売の間に筑前ヤシキが描かれています。)
「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(1868)」(絵図中央上方向・堀川右、一条と中立売の間に筑前屋敷が描かれています。また、この右上方向、薩州屋敷左方向上立売上にも筑前ヤシキが描かれています。)
カメラ位置は一条戻橋東詰めで、カメラ北東方向が福岡藩黒田家京屋敷跡になると思います。