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「国立国会図書館デジタルコレクション – [洛中絵図・洛外絵図]. [2]」(コマ番号3/5・絵図中央左方向、今出川大原口左下に現在地に移転前の立本寺が描かれています。)
立本寺
[立本寺(りゅうほんじ)は、京都府京都市上京区にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は具足山。塔頭が四院ある(正行院、教法院、光源院、大輪院)。
日像が創建した妙顕寺を起源とする。日蓮の弟子で京都での布教に携わった日像は、1321年(元亨元年)、御溝傍今小路(京都市上京区)に妙顕寺を創建。1341年(暦応4年)、四条櫛笥(下京区四条大宮付近)に寺地を移した。妙顕寺は1387年(嘉慶元年)山門(延暦寺)により破却されるが、1393年(明徳4年)、三条坊門堀川(二条城南東付近)に再興され、寺号を妙本寺と改めた。
1413年(応永20年)、妙本寺は再度山門により破却され、5世月明は丹波国に難を逃れた。1416年(応永23年)、日実は妙顕寺の旧地(四条櫛笥)に寺を再興し、本応寺と号したが、一方、月明は五条大宮に妙本寺を再興(後に妙顕寺に復称)、本応寺と対立した。この本応寺が改称して立本寺と号した。なお、妙顕寺(妙本寺)と本応寺(立本寺)の分立については異説もあり、1393年(明徳4年)、日実が四条櫛笥の旧地に妙顕寺を再興し、本応寺(のち立本寺)と号したとする説もある。
立本寺は1536年(天文5年)天文法華の乱で他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に避難するが、1542年(天文11年)後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、法華宗寺院は京都へ戻ることとなった。立本寺は1544年(天文13年)新町三条に伽藍を再建した。その後1594年(文禄3年)、豊臣秀吉の命により、寺町今出川(上京区立本寺前町)にふたたび移転した。1708年(宝永5年)宝永の大火で焼失後、現在の地に移転し、伽藍を再建した。
妙顕寺、妙覚寺、立本寺の三寺で「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれている。 (wikipdia・立本寺より)]
[立本寺は日蓮宗旧一致派の本山である。本堂(寛保3年・1743)は日蓮宗七間堂の典型的な構成で豊かな装飾が特徴。刹堂(文化8年・1811)は小規模だが本格的な建築である。他に客殿(享保13年・1728)や表門(安永7年・1778),鐘楼(寛文年間・1661-1673)が残る。 (「京都市指定・登録文化財-建造物」より)]
立本寺資料リンク
「拾遺都名所図会」・巻之一 平安城 立本寺
清和院(拡大図)
「日蓮宗本山 立本寺 – Google Map 画像リンク」、「立本寺 宿坊 四神閣 – Google Map 画像リンク」
カメラ西方向が立本寺山門です。
カメラ東南東方向が妙見堂で、妙見堂右に山門、左に刹堂(鬼子母神堂)があります。
カメラ初期設定方向が本堂です。