細川勝元邸跡付近

マーカーは細川勝元邸跡付近です。

細川勝元
[細川 勝元(ほそかわ かつもと)は、室町時代の武将・守護大名管領土佐国讃岐国丹波国摂津国伊予国守護。足利氏の支流で三管領の1つである細川氏嫡流・京兆家の当主。細川持之の子、細川政元の父。応仁の乱の東軍総大将として知られている。  (wikipedia-細川勝元より)
室町幕府は、南北朝時代の混乱や有力守護大名による反乱が収束した3代将軍足利義満・4代将軍足利義持の代に将軍(室町殿)を推戴する有力守護の連合体として宿老政治が確立していた。籤引きによって選ばれた6代将軍足利義教専制政治をしいて守護大名を抑えつけ将軍の権力を強化するも、嘉吉元年(1441年)に赤松満祐に暗殺され(嘉吉の乱)、守護大名が盛り返し政権にほころびが見え始める。嘉吉の乱鎮圧に功労のあった山名宗全は主謀者赤松氏の再興に反対していたが長禄2年(1458年)、細川勝元が宗全の勢力削減を図って赤松政則を加賀守護職に取立てたことから両者は激しく対立し、後に勝元が養子で宗全の末子豊久を廃嫡したことが応仁の乱の要因となったとされている。しかし、文安4年(1447年)に勝元が宗全の養女を正室として以来、細川・山名の両氏は連携関係にあった。畠山氏の家督争いでは両者は協調しており、勝元は宗全の助命活動もしている。両氏が対立関係となるのは寛正6年(1465年)から両氏が和睦する文明6年(1474年)までであり、ことさらに勝元と宗全の対立を乱の要因とする理解は、『応仁記』の叙述によるものであるとの見解が提起されている。8代将軍足利義政は、気まぐれな文化人で打続く土一揆や政治的混乱に倦み引退して隠遁生活を送ることを夢見るようになり、正室の日野富子や側室との間に後継男子がないことを理由に将軍職を実弟の浄土寺門跡義尋(足利義視)に譲って隠居することを思い立った。しかし、寛正6年11月23日(1465年12月11日)、義政と富子との間に足利義尚(後に義煕と改名)が誕生すると実子・義尚の将軍職擁立を切望する富子は宗全に接近し、足利義視の将軍職就任を阻止しようと暗躍した。義視の後見人である勝元と義尚を押す宗全の対立は激化し将軍家の家督争いは全国の守護大名を勝元派と宗全派に2分する事態となり、衝突は避け難いものになっていった。  (wikipdia-応仁の乱より)
応仁の乱の最初の衝突は、畠山義就畠山政長が争い、上御霊神社で衝突したことから始まった(御霊合戦)。これに対して宗全は後花園上皇後土御門天皇を確保して義就を支援したのに対し、勝元は義政の命令で畠山家の争いに関与することを禁じられていたため、御霊合戦では静観していた。このため、政長は敗れた。しかし5月25日、天皇を擁した宗全に対して、勝元は幕府を占領して将軍を擁立し、5月26日には山名方に戦いを挑んだ。細川勝元は東軍、山名宗全は西軍である。勝元は将軍・義政から宗全追討令を受領したものの、戦況は互角であった。また、赤松政則を支援して山名領へ侵攻させたりした。そして一時は宗全に奪われていた上皇・天皇を確保するなど、次第に戦況は東軍有利に進むが、決定打は出せずにいた。応仁2年(1468年)閏10月、義政が伊勢貞親を復職させると、勝元は義尚を、宗全が義視を支持する立場に変わるなど戦況も変わってゆく。このような中で文明4年(1472年)、宗全に和平交渉を試みるが、決裂する。文明5年(1473年)3月に宿敵である宗全が死去して優位に立ったのも束の間、自身も後を追うように5月11日に死去した。享年44。死因は病死と言われているが、一説では山名派による暗殺説もある。死後、政元が細川政国の後見の下で家督を継承、文明6年(1474年)4月3日に宗全の孫・山名政豊と和睦を結んだ。  (wikipedia-細川勝元より)]

京師地圖 : 全 : 中昔 – 所蔵地図データベース」[左絵図・絵図中央付近、百百ノ辻(寺之内通堀川東入ル)右下、大馬場小路と西大路の間に「細川勝元屋形又正元モ居」と描かれていま。]

カメラ南方向は小川通で、カメラ方向付近に細川勝元邸があったと思われます。

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