細川政元屋敷跡

マーカーは細川政元屋敷跡です。

細川政元
[文正元年(1466年)、室町幕府管領として強い力を持っていた細川勝元の嫡男として生まれる。文明5年(1473年)5月、応仁の乱の最中に病死した勝元の後継として、わずか8歳で家督を相続。丹波摂津土佐守護に就任する。幼少のため、分家の典厩家当主細川政国の補佐を受けた。
文明6年(1474年)4月3日、西軍方の山名政豊と和睦し、応仁の乱は終息する。文明10年(1478年)7月に13歳で元服し、8代将軍・足利義政の偏諱を受けて政元と名乗る。  (wikipedia・細川政元より)]

応仁の乱終息
[文明4年(1472年)になると、勝元と宗全の間で和議の話し合いがもたれ始めた。開戦要因の一つであった山名氏の播磨備前美作赤松政則に全て奪還された上、宗全の息子達もかねてから畠山義就支援に否定的であり、山名一族の間にも厭戦感情が生まれていた。しかし、この和議は領土返還や山名氏の再侵攻を怖れた赤松政則の抵抗で失敗した。3月に勝元は猶子勝之を廃嫡して、実子で宗全の外孫に当たる聡明丸(細川政元)を擁立した後、剃髪した。5月には宗全が自殺を図って制止され、家督を嫡孫政豊に譲り隠居する事件が起きた。
12月19日(1474年1月7日)には義政が足利義尚に将軍職を譲って隠居した。幕府では文明3年に長らく空席だった侍所頭人(所司)に赤松政則が任ぜられ、政所の業務も文明5年になると政所頭人(執事)伊勢貞宗によって再開されるなど、幕府業務の回復に向けた動きがみられた。管領は義尚の将軍宣下に合わせて畠山政長が任じられたものの、一連の儀式が終わると辞任してしまい、再び空席になってしまったために日野富子の兄である公家の日野勝光が幕府の役職に就かないまま、管領の職務を代行した。一方で富子の勢力が拡大し、義政の実権は失われていった。
文明5年(1473年)の3月18日(4月15日)に宗全が、5月11日(6月6日)に勝元が相次いで死去した。宗全の死を契機に、双方で停滞していた和睦交渉が再開されたが、畠山政長と畠山義就の大反対で頓挫している。
翌6年(1474年)3月、義政は小河に建設した新邸に移り、室町邸には富子と義尚が残された。興福寺別当尋尊は「天下公事修り、女中御計(天下の政治は全て女子である富子が計らい)、公方(義政)は大御酒、諸大名は犬笠懸、天下泰平の時の如くなり」と評している。だが、義政の大御酒が平時と異なったのは、室町亭に退避していた後土御門天皇がその酒宴に加わっており、幕府のみならず朝廷の威信の低下にもつながる事態となっていた。
文明6年4月3日(4月19日)、山名政豊と細川政元の間に和睦が成立。山名政豊は東軍の細川方と共に畠山義就、大内政弘らを攻撃した。さらにこの頃、西軍の一色義直の子義春が義政の元に出仕し、丹後一色氏も東軍に帰順した。その後も東軍は細川政元・畠山政長・赤松政則、西軍は畠山義就・大内政弘・土岐成頼を中心に惰性的な小競り合いを続けていた。
文明9年(1477年)9月22日には主戦派の畠山義就が畠山政長の追討を名目に河内に下国する。そして、9代将軍足利義尚の名で周防長門豊前筑前の4か国の守護職を安堵された大内政弘が、11月11日(1477年12月16日)に京から撤収したことによって西軍は事実上解体され、京都での戦闘は収束した。足利義視・義材(後の10代将軍足利義稙)親子は、土岐成頼斎藤妙椿と共に美濃に退去した。なお、能登守護の畠山義統土岐成頼はこの和睦に納得せず、京の自邸を焼き払ったという。西軍の解体は僅か1日で終わったと伝えられる。9日後の11月20日、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され11年に及ぶ大乱の幕が降ろされた。  (wikipedia・応仁の乱より)]

京師地圖 : 全 : 中昔 – 所蔵地図データベース」[左絵図・絵図中央付近、西倉口左下に細川政元と描かれています。西倉口を下ると、安楽小路を通り町口小路に至る。]

西倉口
[2 (地名)清蔵口から調べる
⑩『京都市の地名-日本歴史地名大系』〈下清蔵口町〉に「上京区。清蔵は西倉の転訛または清蔵という富者がいたとも。」とあり。〈上清蔵口町〉に、「北区。『雍州府志』の引用では清蔵は西蔵から出た。『山州名跡志』では清蔵なる富者から地名をとる。」とあり。   
⑪『大日本地誌大系 37 山州名跡志2』〈清蔵口〉あり。「福人」の由来あり。巻17「洛陽部 今京通條 横條路 鞍馬口通」に、「東は京極の上に及んで、西方新町通(町口小路)り至る。その北を清蔵口と称す。中比此の地に、云清蔵福人住せし故なり。」とあり。
⑨『訓読 雍州府志』〈西倉口〉に、「古へ、御倉、この処にあるか。今、誤りて、西蔵口と称し、また清蔵口といふ。」とあり。  (「京都市北区上清蔵口(あるいは下清蔵口)にいた、雑色(ゾウシキ)の秦」より)]

カメラ位置は上御霊町通/新町通交差点で、交差点南側が大心院町です。カメラ南南西方向に細川政元屋敷があったと思われます。大心院町には細川政元が創建した大心院(現在妙心寺塔頭)があったとされる。