薩摩藩調練場

マーカーは薩摩藩調練場(小松原児童公園)です。

薩摩藩調練場
[串木野郷士の野元良図による『上京日記』を分析した町田剛士氏の研究によると、薩摩藩の場合、錦小路の藩邸が狭く、多人数を収容できないので、「薩摩藩は文久二年の冬、御所北側の相国寺敷地内に土地を購入し起工、文久三年に二本松屋敷を建造し」、それは文久3(1863)年10月までに完成していた。
 町田氏は、『上京日記』の記述をもとに、薩摩藩が文久4(1864)年4月までに岡崎にも藩邸を建造し、そこで藩兵の調練が行われていたことを明らかにしている。つまり、文久4年までに、薩摩藩邸は京都市街地とその周辺に都合3か所あったことになる。取得の順序でいえば、享保2年までに市街地内部の錦小路で、それから176年後に市街地の北の、御所の近傍で二本松藩邸を創出し、その直後に鴨川の東側に位置する藩邸を確保していた。
 鎌田氏によると、薩摩藩は岡崎の新屋敷をのちに手放し、「その代わりに等持院村に新屋敷をまたこしらえている」。
慶応4年(168)年に刊行された「改正 京都御絵図細見大成」には、「薩州屋敷」が明記されている。  (「藩邸 – 国土地理協会」より)]

[幕末、1866(慶応2)年6月の第二次長州征討に先立つ4月、薩摩藩の島津久光は衣笠山麓に調練場を設置します。もともとこの辺りは雑草が覆い繁る林でした。その規模は1万6千余坪、(約5万3千平米 甲子園球場1.4個分)、北は衣笠山山麓から、東は宇多川(馬代通りの1本東の通り)、南は小松原北町の辺りまでで、そこに火薬庫、射的場、牢屋、警備員のための勤番所、藩主の休憩所を設置し、勤番の足軽16名が配されていました。
責任者は薩摩藩の武士高島六三で、大目付として万一の変勃発に備えていたといいます。
現在の衣笠キャンパス「究論館」「末川記念会館」あたりには「火薬庫」があり、小松原児童公園あたりに藩主の休憩所がありました。
この「火薬庫」からは大量の弾薬が鳥羽伏見の戦いの折搬出され、官軍の戦況を有利ならしめたという逸話が伝えられます。(幕府側の破壊工作を恐れ、事前に火薬庫から弾薬を搬出し辺りの民家に隠し、空の火薬庫に見張りを立てておいたとも伝わります)
また、幕末には西園寺家の別宅が薩摩藩調練場に隣接して立地しており、若き西園寺公望がたびたび逗留していました。現在の真如寺の東に面して建てられていた別宅は、大きな池(西園寺池と通称された)があり竹が多くあったことから「萬介亭」と呼ばれていました。
少年公望はこの家を気に入り、自ら号を「竹軒」とし、6歳から16歳まで住んでいたそうです。
この「萬介亭」の北に薩摩藩の高島六三の家があったことから、公望も親しく交流して当時珍しかった「牛肉」を馳走になったそうです。時代を考えると「牛肉」だけでなく国難の状況なども多く学んだことでしょう。  (「<懐かしの立命館>衣笠キャンパス周辺は深い歴史がありました-平安から現代までの変遷- 前編」より)]

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小松原・薩摩藩調練場 – Google Map 画像リンク

カメラ南方向が薩摩藩調練場の薩摩藩主の休憩所があったとされる小松原児童公園です。