マーカーは表千家不審菴です。
表千家不審菴
[表千家(おもてせんけ)は、茶道流派の一つ。千利休を祖とする千家の家督を継いだ千家流茶道の本家であり、宗家は京都市上京区小川通寺之内通上るにある。表千家を象徴する茶室不審菴(ふしんあん)の号の由来は「不審花開今日春」の語に由来しており、財団法人不審菴が管理している。現在の家元は、千利休から数えて、14代目の而妙斎(じみょうさい)千宗左(せんそうさ)家元である。代々の家元は紀州藩主である紀州徳川家(御三家)の茶頭として格式を誇り、紀州徳川家と強いつながりがあった三井家とも縁があった。本家の表千家に対して分家の裏千家の名は、今日庵が表通りの不審菴の裏にあることに由来する。
茶の湯の大成者である千利休(せんのりきゅう)の没後、千家は2代・千少庵(せんしょうあん)、3代・千宗旦(せんそうたん)と続いた。3代宗旦の三男である江岑宗左は、宗旦の隠居に伴い継嗣として不審菴を継承した。宗左は千家の直系を継いだわけであるが、宗旦は屋敷の裏に今日庵を建てて隠居所とした。宗旦の死後、今日庵を四男の仙叟宗室が受け継いで独立し、裏千家となった。また次男の千宗守が養子先から出戻ってきて別に一家を起こし武者小路千家となった。こうして表・裏・武者小路の三千家が成立した。 (wikipedia・表千家より)]
千利休居士遺蹟不審庵
[表千家流家元の茶室。利休(1522~91)切腹後,継子少庵(1546~1614)が豊臣秀吉(1536~98)から千家復興を許され,拝領したこの地に利休ゆかりの不審庵等を復興した。その後,三男宗旦(1578~1658)に譲られ,正保3(1646)年,その子宗左(1613~72)が継ぎ,表千家の基礎が確立した。この石標は利休ゆかりの不審庵を示すものである。
所在地 上京区小川通寺之内上る東側
位置座標 北緯35度02分02.9秒/東経135度45分12.0秒(世界測地系)
建立年 1928年
建立者 京都史蹟会
寸 法 高133×幅20×奥行19cm
碑 文
[西]
千利休居士遺蹟 不審庵
[南]
昭和三年十一月
[北]
京都史蹟会建
調 査 2002年2月6日 (「KA044 千利休居士遺蹟不審庵 – 京都市」より)]
カメラ東北東方向が表千家不審菴で、門前左に千利休居士遺蹟不審庵石標があります。
千家資料リンク
「都名所図会」・巻之一 平安城再刻 千宗佐宅 (千家)