郡山藩柳沢家京都屋敷(永井尚志寓居)跡

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郡山藩
[将軍徳川吉宗期の享保9年(1724年)、享保の改革における幕府直轄領拡大に際して、甲斐国甲府藩から柳沢吉里が15万1000石で入る。以降明治維新まで柳沢家6代の支配を経ることになる。2代信鴻、3代保光は名君の誉れ高く、治世の安定、文武の興隆、殖産事業の発展に努めた。畿内の雄藩として禁裏の守護や京都・奈良の防火活動などを行った。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に加わり、東北地方まで転戦した。  (wikipedia・郡山藩より)]

柳沢吉保の京都屋敷 – 宮川洋子

[京都における大名火消制度は、元禄3(1600)年に畿内近国で勤める京都火消御番として開始された。その後2度の制度改革を経たのち、禁裏御所方火消を担っていた亀山藩淀藩膳所藩、大和郡山藩の4藩が、享保7(1722)年に京都火消を兼ねた京都火消役となり、その制度が確立する。これ以降は4藩が月番で勤め、後に4藩の藩主が江戸詰の役職についた場合の補充として高槻藩篠山藩が追加された。京都火消役は2藩ずつが組み合わされており、他の2藩主が帰国するのをまって在邑の2藩主が江戸へ参勤した。そして、天明大火時に藩主自らが出馬したのは亀山藩と篠山藩であり、大和郡山藩、淀藩、膳所藩、高槻藩、園部藩は家臣を出動させている。
京都火消役大和郡山藩松平甲斐守保光は天明大火(1788年1月30日 – 1788年3月9日)発災時に在府中であったため、国元の注進によって、京都大火を知ることになる。その経過及び京都火消役として藩主在府中の同藩の対応は、保光の年代記「虚白堂年録」によって知ることができる。
大和郡山藩江戸藩邸では、2 月 5 日、老中鳥居丹波守忠意から達せられた、京都大火に付き明 6 日総出仕という大目付廻状が到来してはじめて京都大火の事実を知ることになった。この廻状に基づいて、6 日には藩主柳沢甲斐守保光は登城した。翌 7 日に国元大和郡山から、大火発生の翌日の 2 月朔日に出された用状が江戸藩邸に届いた。国元大和郡山においても、京都からの注進を受け、それを江戸に伝えるという段取りであるから、大火の刻々の変化を伝える注進の内容がそのまま伝達されている。2 月朔日国元を発した報では、禁裏の天皇、女院は賀茂へ立ち退き、風下の御所は別状なし、未だ京都市中は鎮火せずという内容であった。
 7 日には再び大目付からの廻状で、禁裏炎上に付き御機嫌伺いとして明 8 日総出仕、且つ 7 日から 9 日までの間、鳴物停止が令達された。幕府への情報は京都火消役を担う大和郡山藩への国元から通報よりも一日ほど速いことがわかる。
 さて、7 日には、大和郡山藩は、国元から得られた火消出動状況を以下のように幕府へ報告した。
 一番手、二番手は出動、三番手も国元大和郡山を出て京都へ向かっている旨報告した。
 さらに郡山藩壬生の京都屋敷が類焼した旨を老中鳥居丹波守、いまだ在府中の京都所司代松平和泉守乗完に届け出た
 なお、この段階では京都所司代松平乗完はいまだ京都へ赴いてはいなかったため、何時京都へ出立するのかを用人に問い合わせたところ、13 日に京都着の予定である旨の情報を得た。それに基づいて、所司代管轄下の京都火消役の大和郡山藩としては、京都所司代へまずは報告という手続きをとったことになる。
 次いで、2 月 10 日には、国元から火消役出動について、詳細な報告が届いた。御所はいまだ火が掛からずという段階の 7 日到着の情報から、矛すでに御所にも火が入り、天皇、女院などが聖護院宮へ一時避難、その警護に当たった事実の報告である。
 それによると、大和郡山藩一番手、二番手の火消人足は禁裏付役水原摂津守保明の指図で、天皇、女院の立退き先聖護院宮を警護していたが、禁裏の文庫蔵を守るよう指示が出たので、その指示に従って防火に努めた。その後、藩役人から願い出て、出火の晩以来の疲れを理由に火消組一番手、二番手は伏見駅へ退却した。しかし、三番手は禁裏付建部大和守廣般配下の指示により、いまだ鎮火不十分の禁裏に暫時留まることになった。その理由は、禁裏の消火を同じく京都火消役の丹波篠山藩へ申し付けたが、6 日に京都着とのことであるから、それまでは大和郡山藩が禁裏防火の警護に勤めるようとのことであった。国元の判断により、天皇の立退き先聖護院宮の警護を強化するため、2 月 2 日暁には、家老、番頭、平侍などがさらに出動したことも報告している。
 その後、4 日、5 日頃には一番手は京都に詰め(三条橋東俵屋喜兵衛宅)、二番手は伏見に滞在、家老その他の出動隊は国元へ戻ったことなどを江戸の老中鳥居忠意に届け出た。漸く、丹波篠山藩の青山下野守忠講の火消組が 2 月 8 日から禁裏の警護に就くことになり、同日、大和郡山藩はすべての火消組が国元へ戻った。この段階で同藩の京都火消役としてのこの大火の実質的任務を終えたことになる。  (「京都天明大火における大名火消の実態 – 大邑潤三・塚本章宏・北原糸子」より)]

近世京都大名火消の基礎的考 – 藤本仁文

龍馬暗殺
「河原町の近江屋(醤油商)は、土佐藩邸から4~5メートルの距離にあり、いざという時、逃げ込むことができる。慶應3(1867)年11月5日、龍馬は近江屋に入った。寺田屋の女将お登勢は、危険だから藩邸に入れという手紙を出しているが、龍馬はその返事で、幕府の京都守護職会津藩松平容保や要職の若年寄格永井尚志に会っているから、大丈夫だと答えている。永井からは大丈夫という免状(?)ももらっていたのだろう。
 『勝海舟日記』は、襲ったのは見廻組組頭佐々木只三郎率いる幕臣だとした(近江屋事件)。会津藩公用方(公用人)の手代木直右衛門(てしろぎすぐえもん、佐々木只三郎の実兄)は、殺したのは実弟只三郎と語った。
 問題の中根雪江宛11月10日付手紙の追伸で、龍馬は「今日、(幕臣の)永井尚志方を訪ねたが面会できず、談じたい天下の議論が数々あり、明日も訪ねたいと思っているので、ご同行願えれば大幸に存じます」と書いていた。『英雄たちの選択選』で、磯田道史さんは、永井尚志が滞在していたのは大和郡山藩邸で、その目と鼻の先に見廻組下宿の松林寺(通称 やす寺)があった。永井が暗殺の黒幕だった可能性は低いけれど、龍馬は、前日までの3日間、永井を訪ねているので、その後を付ければ居所は知れるとした。会津藩公用方の手代木直右衛門は、龍馬暗殺は某諸侯の命によるもので、死の直前に、某諸侯は「松平容保」と語っている。  (「「龍馬暗殺 最期の宿に秘められた真相」: 轟亭の小人閑居日記 …」より)]

[大正12年(1923年)には、佐々木の兄で会津藩公用人であった手代木勝任(直右衛門)の養嗣子が『手代木直右衛門伝』を私家版で刊行した。この書では、手代木勝任が没する数日前に、「坂本を殺したるは実弟只三郎なり」と述べ、龍馬が薩長同盟と「土佐の藩論を覆して倒幕に一致せしめたるをもって、深く幕府の嫌忌を買ひたり」として、「某諸侯の命」によって只三郎が3人で蛸薬師にて龍馬を殺害したとしている。同書内では「某諸侯」は京都所司代で容保の実弟でもあった桑名藩主松平定敬であったとしている。また磯田道史は松平容保を指すとしている。  (wikipedia・近江屋事件より)]

永井尚志
[嘉永6年(1853年)、目付として幕府から登用される。安政元年(1854年)には長崎海軍伝習所の総監理(所長)として長崎に赴き、長崎製鉄所の創設に着手するなど活躍した。安政5年(1858年)にそれまでの功績を賞されて呼び戻され、岩瀬忠震と共に外国奉行に任じられた。そしてロシアイギリスフランスとの交渉を務め、通商条約調印を行なった。その功績で軍艦奉行に転進したが、直後の将軍後継者争いで一橋慶喜を支持する一橋派に組したため、南紀派大老井伊直弼によって罷免され、失脚した。
直弼没後の文久2年(1862年)、京都町奉行として復帰し、元治元年(1864年)には大目付となる。文久3年(1863年)の八月十八日の政変、元治元年(1864年)7月19日の禁門の変では幕府側の使者として朝廷と交渉するなど、交渉能力で手腕を発揮した。慶応3年(1867年)には若年寄にまで出世する。大政奉還においても交渉能力を発揮した。鳥羽・伏見の戦い後は慶喜に従って江戸へ戻り、徳川家駿府転封が決まった後は榎本武揚と行動を共にして蝦夷地へ渡り、「蝦夷共和国」の箱館奉行に就任した。しかし、旧幕府軍は半年あまりの戦いの末、明治2年5月に降伏した。新選組隊士の田村銀之助大正9年に史談会で語ったところによれば、最初に降伏したのが弁天台場の守備に当っていた永井らで、降伏後は五稜郭の榎本らにも頻りに降伏の勧誘を行っていたという。
明治5年(1872年)、明治政府に出仕し、開拓使御用係、左院小議官を経て、明治8年(1875年)に元老院権大書記官に任じられた。  (wikipedia・永井尚志より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863] )」(絵図四つ切左上・千本御屋敷上に郡山と記述されています。)

国際日本文化研究センター – [大成京細見繪圖 : 洛中洛外町々小名](慶應4・1868年)」(絵図四つ切左上・御所司代千本屋敷上に郡山ヤシキが描かれています。)

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(明治元年・1868年)」(絵図四つ切左上・千本御屋敷上に郡山屋鋪が描かれています。)

カメラ位置は上京警察署 下立売交番南側・中村公園西側で、カメラ南西方向二条城北小学校にかけて一帯が郡山藩柳沢家京都屋敷(永井尚志寓居)跡になります。