鴨方藩池田家(池田満治郎)京屋敷跡

マーカーは鴨方藩池田家(池田満治郎)京屋敷跡です。

池田章政
[池田 章政(いけだ あきまさ)は、肥後人吉藩の第13代藩主相良頼之の次男。頼之の祖父の相良長寛岡山藩の第4代藩主池田宗政と正室(宝源院・筑前福岡藩第6代藩主黒田継高の長女)の次男であり、章政は宗政の男系の玄孫にあたることから、鴨方藩池田家、のちには岡山藩池田宗家の養子に迎えられることになった。
弘化4年(1847年)3月5日、鴨方藩の第8代藩主池田政善末期養子となるため、人吉から江戸に入る。同年3月下旬、江戸の人吉藩邸から鴨方藩邸に移る。同年7月、鴨方藩主池田政善の末期養子として家督を相続した。嘉永2年(1849年)12月、従五位下・内匠頭に叙任する。後に信濃守に改める。幕末の動乱期の中では尊皇攘夷派として行動し、藩内における尊皇攘夷派からの信望もあった。
慶応4年(1868年)3月15日、章政は宗藩の岡山藩主を継いだ。先代藩主の茂政新政府からの実兄徳川慶喜の追討の命令を受け、隠居したためである。鴨方藩主は章政の長男の政保が継いだ。そして章政は戊辰戦争においては新政府軍に与して藩軍を関東奥羽函館にまで送った。明治2年(1869年)の版籍奉還により藩知事となる。明治4年(1871年)、廃藩置県により免官となり、東京へ移った。  (wikipedia・池田章政より)]

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(明治元年・1868年)」(絵図中央上方向・堀川左、中立売大宮通上ル西に池田満治郎屋敷(鴨方藩池田章政)が描かれています。その二筋東、中立売猪熊左上に備前ヤシキ、堀川右武者小路/西洞院上に備前屋敷が描かれています。)

カメラ位置は中立売通/旧大宮通交差点で、カメラ北西方向が鴨方藩池田家(池田満治郎)京屋敷跡になると思います。