麻田藩青木家京屋敷跡

マーカーは麻田藩青木家京屋敷跡です。

青木重義
[青木 重義(あおき しげよし)は、嘉永6年(1853年)、摂津国麻田藩第11代藩主青木重龍が隠居後にもうけた五男として誕生した。
安政3年(1856年)8月28日、養父・第13代藩主青木一咸の死去により、わずか4歳にして家督を継いだ。重龍の死去は2年後の安政5年(1858年)である。慶応4年(1868年)2月20日、上洛し、新政府支持の姿勢を示す。同年4月3日、従五位下・民部少輔に叙任する。
維新後の明治2年(1869年)6月23日、麻田藩知事に就任する。藩校・直方堂を文武局と改めると共に、漢学や算数などを新たに取り入れた。同年、藩の領地である高平郷(川辺郡高平村、のち有馬郡に編入、現・三田市)で小作争議が起こっている。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県に伴い藩知事を免職となった。  (wikipedia・青木重義より)]

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(明治元年・1868年)」(絵図四つ切左上・堀川左、出水通/日暮通左上に勝山と記述されています。)

カメラ位置は出水通/日暮通交差点で、カメラ北西方向が越前勝山藩小笠原家京屋敷跡になると思われます。