亀山稲荷神(丹波亀山藩京屋敷跡)

マーカーは亀山稲荷神社です。

丹波国亀山藩京屋敷跡
[亀山は現京都府亀岡市江戸時代前期,広島藩邸があったこの地に,享保15(1730)年頃,丹波篠山藩松平信岑(1696~1763)の屋敷が置かれた。寛延元(1748)年,信岑が丹波国亀山に転封されたのに伴い,同藩邸となり,明治3(1870)年民有地となるまで存続した。この石標は亀山藩邸跡を示すものである。なお,この藩邸については『新修亀岡市史』資料編第2巻(2002年亀岡市刊)に幕末の敷地見取り図が紹介されている。
所在地 下京区松原通室町西入北側(白滝・花月大明神内)
位置座標 北緯34度59分56.0秒/東経135度45分26.6秒(世界測地系)
建立年 1995年
建立者 中野之町町内会
寸 法 高123×幅21×奥行15cm
碑 文
[南]
丹波国亀山藩京屋敷跡
[北]
平成七年十月吉日
中野之町町内会建
調 査 2002年2月14日
備 考 亀山藩邸鎮守社白滝・花月大明神碑(SI043)と同所  (「SI016 丹波国亀山藩京屋敷跡 – 京都市」より)]

[丹波国 亀山藩京屋敷跡  中野之町 亀山稲荷神社
江戸前期に当地は、間口十一間、奥行三十間の芸州広島藩四十二万石、浅野氏松平安芸守の京屋敷で、その後一七三〇年頃、丹波篠山藩五万石、形原松平紀伊守信岑の京屋敷となとる。信岑は寛延元年(一七四八)丹波亀山藩五万石に転封になる。以降歴代亀山藩主は幕府の要職に就き、京都火消役にもなり譜代大名として京都監視の重責を果した。新政府となった慶応三年には京都市中取締役を努め、明治二年版籍奉還の時に藩名を亀岡と改称した。明治三年二月当京屋敷は民有地となる。明治七年にはこの京屋敷三棟は,稲荷焼で類焼した修徳小学校の仮校舎にも使用された。明治二十五年、京都市第二高等小学校校舎の建設時まで存続した。
 亀山藩京都松原邸の鎮守の神として祀られていたのが亀山稲荷で、祭神は白瀧大明神と花月大明神である。昔は両祠があり、江戸期より衆人に尊崇され亀山講も存した。明治以降は、中野之町が奉祀る。大正五年の旧亀岡藩士族有志の碑も存する。往時より正月祭、初午祭、火焚祭を執行する。その霊験は諸厄除災、商売繁昌、家庭円満に灼かと伝える。  
中野之町  (「形原松平家について – 藩史」より)]

[京都における大名火消制度は、元禄3(1600)年に畿内近国で勤める京都火消御番として開始された。その後2度の制度改革を経たのち、禁裏御所方火消を担っていた亀山藩、淀藩膳所藩大和郡山藩の4藩が、享保7(1722)年に京都火消を兼ねた京都火消役となり、その制度が確立する。これ以降は4藩が月番で勤め、後に4藩の藩主が江戸詰の役職についた場合の補充として高槻藩篠山藩が追加された。京都火消役は2藩ずつが組み合わされており、他の2藩主が帰国するのをまって在邑の2藩主が江戸へ参勤した。そして、天明大火時に藩主自らが出馬したのは亀山藩と篠山藩であり、大和郡山藩、淀藩、膳所藩、高槻藩、園部藩は家臣を出動させている。
天明大火(1788年1月30日 – 1788年3月9日)が発生したのは正月晦日であり、この月は篠山藩が京都火消当番であった。翌月 2 月の当番が亀山藩にあたっていたため、亀山藩の番頭奥平与三左衛門は人数を引連れ、当番前日の正月晦日、卯の刻(6 時頃)に亀山を出発していた。出発時に関しては、亀山藩大目付「勤用式」に、非番月の朝 6 時に古世御門に集まり一番手、二番手に分け、柏原で一度解散したのち朱雀村で再び行列を組むと決められている。
 山陰道を京都へ向かっていたが、同日卯の刻(6 時頃)に京都を出発した注進と、老ノ坂峠の峠下で出会うことになる。京都亀山藩邸(松原通新町東入)に詰めていた伴善太夫からの報告によれば、「建仁寺門前どんぐりの辻子の空家から出火して寺町通四条下ルまで延焼し、もはや藩邸近くまで火が迫っているので出馬を待つ」との事であった。また火が迫り火消道具を土蔵から取出すことが難しくなったので、火消道具持参の上で出馬するよう求めている。
 これをうけ亀岡藩主松平紀伊守信道の出馬となり、まず老ノ坂峠の地蔵堂守、井上久膳宅で休息している。亀山藩では京都への入口にあたる老ノ坂に、扶持をもらい帯刀を許された者を置き、老ノ坂から日常的に京都の情勢を監視し、異変が起きた場合には、城下に注進する役目を担わせていた。ここでは一行の休息場として使われており、そうした役目もあったことが推察できる。
 沓掛村に至ると、ここで再び京都を巳の半刻(午前10 時頃)に出発した飛脚が到来する。注進によれば、「火災は大火となり二条城にも火が迫る勢いで、藩邸は既に焼失したので伴善太夫父子は朱雀村丹波屋に避難し、そこで信道一行を待つ」としている。また先に出発した奥平からも同所へ書簡が到来した。奥平からの注進によれば、「今朝、峠下を通過中に伴善太夫からの知らせを受け、その後も途中で注進と遭遇し善太夫父子が朱雀村に避難した事を知った。藩邸が心配となったので使者を藩邸に遣わしたが、巳の半刻に使者が帰着し、それによれば最早藩邸は焼失、土蔵は無事、怪我人は無い」との事であった。
 信道一行は午の半刻(正午頃)樫原本陣にて休息し食事をとっていたが、そこへも続々と注進が到来する。その後、桂川を渡し船によって渡り、朱雀村の権現堂に入ったのは未の半刻(14 時頃)であった。
 朱雀村に入ると伴善太夫の息子である伴源左衛門が信道に拝謁し火事の様子などを報告した。町奉行に出馬の届出と詰所の場所をたずねるため、源左衛門を使者に立てたが、火急の事であるので届出・伺いは口上で許されている。二条城で町奉行の池田筑後守長惠に出馬の届出と伺いを申し述べたところ、亀山藩は二条城に出向くよう申し渡された。しかしその頃朱雀村の信道一行は、風が激しく二条城が心配となったため、源左衛門が帰るのを待たず二条城へ向かっている。
 火消当番の藩は所司代だけでなく町奉行や幕府目付に対しても出動の報告を行い、また城下から出動した場合、部隊は火元の近所に赴き、所司代へ派遣した使者の帰りを待つことになっていた。天明大火時は新たに所司代に任命されていた松平和泉守乗完がいまだに上京しておらず不在であったため、町奉行へ出動報告を行ったと思われる。しかし風向きを読んで使者の帰りを待たずに出動した点は、亀山藩独自の判断であったといえよう。
 朱雀村から二条城へ向かうことになったが、南東の風が激しく壬生付近はすでに焼失し、千本通は通行困難となっていた。そこで大きく迂回し、七条通を東へ進み、大仏(方広寺)門前を北に、さらに建仁寺付近を通過し三条大橋東を北に進み、丸太町を西に進んで、二条城の北御門に至っている。
 先行研究でも指摘されているように、二条城の防火が優先されていた事がこの行動からも判断できる。焼失した建物が道路を塞ぐなどして千本通が通行できない事態にあったと思われるが、急がば回れとばかりに大きく迂回する道を選んでいる。これは確実に二条城へ到着できる方法を選んだという事だろう。次の行動に移るために道路状況などの情報収集を行っていた事もうかがわれる。また丸太町通を西に進んでいるが、その途中にすぐ北に位置する禁裏御所を気にかけた様子がみられない。重要とされた 2ヶ所のうち、火が迫っている方を優先する判断があったためだろう。
 二条城の門外で町奉行の池田長惠と面会し防火の旨を相談したところ、大番頭へ届け出るとの事であったので、信道は城外に待機し池田長惠が直々に入城した。その後、大番頭に入城を申請したところ、入城し防火せよとの許可が下りる。この時、鑑札箱が遅れていたので、伴善太夫が番所へその旨報告し、火急の事であるから火消人数を入城させるよう要請した。これをうけ御門番頭の間宮孫四郎は、人数を控えた上での入城を許可している。
 非常時であっても幕府の城である二条城に大名が入城する場合には、入城の許可と許可証である「鑑札」が必要であった。鑑札箱とは藩が火消に任命された事を証明する鑑札が入った箱で、求めに応じていつでも提出できるよう携えていたものである。この時には鑑札箱が遅れていたが、非常時との理由で人数を控えた上での入城が許されるという柔軟な対応がなされている。
 信道一行は二条城西御門から入城したものの、すでに本丸の消火は困難な状態となり、大番頭永井信濃守直温の屋敷を防ぐべく纏を上げたが、火が燃え移ったのでその場を離れ枡形番所などを防いだ。しかし西御門の下に火が移ったので門の際に退いている。その後、南の堀端通を東御門へ進み再び入城した。城中では池田長惠の指図によって東門を防火、消し止め、また信道の指図によって二ノ丸の境界にある本丸の門を防火・消し止めている。
 未の刻(14 時頃)、二条城に火が迫ったため、町奉行山崎大隅守正祥が指揮していた火消人数を市中から二条城に引き取らせた。この頃、伏見奉行久留嶋信濃守通祐も人数を連れて二条城に詰めており、町奉行の役宅は既に類焼していたものの城自体は無事であった。申の刻(16 時頃)過ぎ頃までは、堀川通が焼けていたため、東御門や辰巳櫓へ火が吹き付けている状況であり、入城していた久留嶋通祐や篠山藩の部隊らが防ぎ止めていた。池田長惠も堀川通で消防活動を行ったので火勢は弱まってきていた。そのうち禁裏御所に火が近づいたため山崎正祥は御所へ向かい、池田長惠は城内を防いでいたが、火勢が強くなり、先程とは反対の戌亥櫓から火が入り本丸へ燃え移った。篠山藩のほか膳所藩や亀山藩の火消人数も投入して消防活動を行い、その後二の丸へも火が迫ったので防ぎ止めた。最終的に、二条城の火災は子の刻(深夜 0 時)頃に鎮まった。
 その後、禁裏御所が風下となったので、火消人数は二条城内に置いたまま、夕方頃信道は供廻りの数人を召連れ二条城を後にする。御池屋敷と三条屋敷の間から千本通を北に進み、中立売通を東に進み、蛤御門、武家御門を通り禁裏御所へ至っている。築地内に入ると、禁裏附の水原摂津守保明と建部大和守廣般に出動報告を行い、御台所御門を通って伝奏方と面会した。そこで光格天皇
の避難にあたって供奉を務めるよう申し付けられている。公家御門外に控えていた供廻りを南御門に回し、信道は御所内で夜食を食したのち、築地内を通って南御門から外へ出ている。同様に供奉を申し付けられた伏見奉行の久留島通祐と共に控え、明けて 2 月朔日の丑の刻(2 時頃)に光格天皇の鳳輦が出輿し下鴨神社へ遷幸した。
 下鴨神社到着後、伝奏方の久我大納言、万里小路前大納言に供奉の挨拶などを済ませ、百姓家に入り休息している。亀山藩邸が焼けてしまい供廻りの支度や炊出し、馬飼料などが用意できなくなったので、金戒光明寺へ依頼し握り飯などを得ている。
 寅の刻(4 時頃)、下鴨神社が風下となったので、聖護院へ遷幸することとなった。前夜同様に供奉を申し渡され、卯の刻(6 時)前に聖護院へ到着したが、聖護院付近も風向きが悪いので、信道の指図によって手廻りの人数で聖護院近辺の家の防火、消し止めにあたった。しかし風向きがいよいよ悪くなったため一条院宮へ臨幸の命令が下り、足軽 8 人に人足を添えて差し出している。信道と永井直温が聖護院の門外を固めていたところ、付近の火気が弱くなったため御所稲荷(御辰稲荷神社か)の社人河上主膳宅で休息、弁当となった。その後、聖護院付近の火が鎮まり、また禁裏も炎上し還御が不可能となったため、聖護院を仮御所とする事となった。信道は藩邸も焼失し家来も疲労していたため、巳の刻(10時)過ぎに金戒光明寺へ引き取り、一泊したのち亀山へ帰る事となった。
 二条城で防火にあたっていた別働隊の奥平与三左衛門は、朔日早朝まで所々の防火にあたり、寅の半刻(4 時頃)に二条城を後にして朱雀村丹波屋に戻り休息をとっている。奥平は午の刻(正午頃)になって金戒光明寺へ参じ、昨日からの二条城内防火の様子と本丸焼失、二ノ丸無事の旨を信道に報告し、再び朱雀村丹波屋へ帰っている。一方、亀山から足軽 30 人が応援部隊として出立し、申の刻(16 時頃)に朱雀村に到着している。その夜、上京付近の火災が未だに鎮まっていないとの知らせを聞き、信道は夕方頃再び出馬して二条城付近を見廻った。しかしこれといった出火場所は見当たらなかったため、亥の半刻(22 時頃)に金戒光明寺に帰っている。
 翌日 2 日、火災が収束したため、信道一行は卯の刻(6 時頃)に亀山へ向け金戒光明寺を出発した。火消人数を先に朱雀村へ返し、信道は聖護院仮御所に参内して挨拶し、その後町奉行と対話していた。そこへ二条城の火が鎮まっていないとの連絡が入ったため、朱雀村へ使者を出し、奥平与三左衛門などにその旨を伝達した。奥平は再び人数を引連れて二条城に到着し、朔日に到着した亀山からの応援隊とともに火消にあたっている。  (「京都天明大火における大名火消の実態 – 大邑潤三・塚本章宏・北原糸子」より)]

近世京都大名火消の基礎的考 – 藤本仁文

国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863])」(絵図中央下・松原通室町西入北側に亀山と描かれています。)

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(成立西暦 1868年)」(絵図中央下・松原通室町西入北側に亀山ヤシキと描かれています。)

亀山稲荷神社 – Google Map 画像リンク

カメラ北西方向が亀山稲荷神社参道で、参道口右に丹波国亀山藩京屋敷跡碑があります。