十念の辻

マーカーは十念の辻です。

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[昭和期の地誌・民俗誌においては,基本的に十念の辻の地名は, 近世期の実際の罪人引き廻しに関連する地名として説明されている。ではどれほど史実を伝承は反映しているのであろうか。史実と伝承を対比させてみる。
(1) 虚像
引き廻し経路を細かく描写した民俗誌として『師走の京都』が挙げられる。それによれば, 経路は次のようになる。
牢屋→三条通→油小路通→一条戻橋→一 条室町→室町三条→三条新町→新町松 原 (十念の辻) で東西に分かれる。松原通を東へ→寺町通→三条通を渡って粟田口刑場へ。
あるいは松原通を西へ→油小路通→三 条通→千本通→二条通(今の太子道)→地獄橋を経て紙屋川刑場(西土手刑場)へ。
経路上のいくつかの場所で儀礼が行われる。例えば, 一条戻橋においては, 馬上の罪人に対して花と餅が供えられ,「来世は真人間になって戻ってこいといわれた」。十念の辻においては,「寺町浄国寺の住職が囚人達にそれぞれ十念を授けた」。これは, 一条戻橋と十念の辻が,「再生」を願う場所と「引導」を渡す場所として,対になって強調されているとみることができる。
(2) 実像
近世京都 町奉行所の編纂と推定される『京都御役 所向大概覚書』には,史実としての経路が記載されている。
「四十六」御仕置者引渡道筋之事
粟田口御仕置もの
一, 牢屋より三条通を油小路へ,油小路を一條迄,一條通を東へ室町迄, 室町通を南へ松原迄,松原を東へ寺町迄,寺町を北へ三條通迄,三條通を東へ粟田口迄。
西之土手御仕置もの
一, 右同断, 松原辻より西へ大宮迄, 大宮を北へ三條まて, 三條通を西へ御土居外を北御仕置場迄。
この『覚書』成立から約半世紀後の成立とされる『嘉良喜随筆』には,次のような記述がある。
○渡り者は三条通へ牢屋より引出し,それを油小路上一条迄ゆき,夫より室町を三条迄さがり,新町を松原迄ゆき,粟田口へのは松原を寺町へ出て,三条より粟田口へゆく。西の土手へは同松原より油小路を三条迄あがり,夫より西へ野へゆく。
以上はいわば定型化された経路であるが,決して引き廻し経路が固定されていたわけではない。『月堂見聞集』には,享保7年12月23日の記事として,「五条通上行寺同宿自戒坊」が粟田口にて磔になる顛末に続いて,その引き廻し経路が書かれている。
(前略) 牢屋より油小路を一条へ出, 室町夫より二条通を寺町五条へ,夫より上行寺門前に至り少し休み,是より建仁寺町縄手へ,夫より三条粟田口へ,右之如く渡り候事,今度京都にて之初め也,故に道法委細に書之,(後略)
この事例の場合,引き廻される「五条通上行寺同宿自戒坊」の,由縁の寺ということで,「五条通」の「上行寺門前」が,経路に入れられたと思われる。おそらくそのような特殊事情がなければ,わざわざ「右之如く渡り候事,今度京都にて之初め也」とのことわり書きを入れる理由がない。
限られた史料ではあるが,近世京都においての,罪人引き廻し経路の実像を素描することができよう。罪人に由縁の場所に寄ることはあるが,基本的には,牢屋から油小路通を一条通まで上り,室町(新町)通を松原通まで下り,東西の刑場へ向かう蛇行経路であった。

十念の辻の地点は,東洞院松原(『橘窓自語』)・新町松原(『新撰京都名所図会』)・寺町松原(「果の二十日寺」)と一見バラバラだが,松原通という東西の通が共通している。この松原通(平安京条坊制における五条通)は,中世の下京南辺に相当することが確認されている。  (「場所と物語-京都の罪人引き廻し伝承を事例として- 土居 浩」より)]

カメラ位置は十念の辻の一つとされる、松原通新町です。