新選組洛中最後の屋敷跡

マーカーは新選組洛中最後の屋敷跡碑です。

新選組屯所の歴史
[1863年、新選組壬生に屯所を置いて活動を開始しました。その後隊士が増加したため1865年3月、西本願寺内の北東にあった北集会所と太鼓楼に移転しました。西本願寺は幕府と対立していた長州藩との関係が深く、見張りの意味合いもあったようです。新選組は、境内で鉄砲などの訓練や切腹などを繰り返したことで西本願寺は大いに困り、境内から出て行ってもらうよう交渉したようです。その結果1867年6月、西本願寺は近くの不動堂村に約1万㎡の広大な土地を購入し、大名屋敷のような新屯所を建築して新選組に提供することになりました。しかし、新選組がこの屯所で活動できたのはわずか6ヶ月だけでした。同年12月、その1ヶ月後に起きた 鳥羽伏見の戦いに備えるため、新選組は伏見奉行所に移ることになったのです。  (「京 都 駅 北 – 京都市埋蔵文化財研究所」より)]

新選組洛中最後の屋敷跡
[新選組は慶応3(1867)年に屯所を葛野郡不動堂村に新築し,それまで屯所としていた西本願寺集会所から移転した。この石標は不動堂村屯所の跡を示すために建立された。本碑の北に隣接する副碑碑文にも記すように屯所の正確な位置は未詳。碑文に引く史料に従えば,この碑よりさらに西北の地に相当する。
所在地 下京区西洞院通塩小路下る西側
位置座標 北緯34度59分13.0秒/東経135度45分18.5秒(世界測地系)
建立年 2009年
建立者 ハトヤ瑞鳳閣
寸 法 高110×幅18×奥行18cm
碑 文
[東]
此付近 新選組最後の洛中屋敷跡
[南]
旧山城国葛野郡不動堂村
[北]
旧平安京八条二坊十五町
[西]
二〇〇九年一〇月 ハトヤ瑞鳳閣建之
[副碑東]
当地は古代の表記でいえば、平安京左京八条二坊十五町にあたります。
中世には八条院町とよばれ、鋳物生産が多数行われた、いわば工業地帯でした。」
が、戦国時代には農村化し、江戸時代までに葛野郡不動堂村が成立しました。しかし豊臣期に構築」
された、京都全体を囲い込む城壁・環濠「御土居堀」の郭内に位置していたため、「洛中」(都市)扱い」
を受けました。
幕末期、新選組がこの地域に屋敷を営みました。池田屋事件や禁門の変などでの活躍や、局長」
近藤勇の政治的力量が高く評価され、慶応3年(1867)6月、将軍徳川慶喜の直属の軍隊となりました。」
これにあわせての新屋敷建設です。いわば最盛期の邸宅といえます。近藤の甥で隊士だった宮川」
信吉の書簡によれば、同年6月15日に入居しています。位置については、同書翰に「七条通り下ル」、」
幹部永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあり、当地付近に営まれたことは確実です。」
が、厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明です。価値の低い」
記録による復元・叙述は、極力さけなければなりません。」
同年12月の王政復古政変により、新選組はわずか半年で当屋敷を離れます。翌年1月の鳥羽伏見」
戦争の敗北ののちは、関東へ下り、解体の道を歩みます。当屋敷は維持されずに早々に消失して、静かな農村に戻ったことでしょう。」
が、明治になり、近くに七条停車場(現京都駅)が設置され、しばらくして地域一帯が京都市内に」
編入されます。当地付近は、地域史上はじめて京都屈指の「人の集まる場」となり、今に至ります。」
歴史地理史学者 中村武生
調 査 2009年12月31日
備 考 副碑碑文は横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト  (「SI067 新選組洛中最後の屋敷跡 – 京都市」より)]

カメラ西南西方向標識柱左に新選組洛中最後の屋敷跡碑があります。