権現寺

マーカーは権現寺です。

権現寺
[権現寺は、山号を清光山という浄土宗寺院で、本堂阿弥陀如来像を祀ります。また、地蔵堂には愛宕権現の本地仏の勝軍地蔵を祀ることから、「朱雀の権現堂」、「朱雀の地蔵堂」と呼ばれて親しまれてきました。権現寺は「太平記」の巻八にも登場し、鎌倉幕府六波羅探題軍と後醍醐天皇に呼応して挙兵した赤松円心軍が「朱雀の地蔵堂」付近で交戦しています。
寺伝によると、この将軍地蔵は、元々大和国奈良県)の元興寺に祀られていましたが、平安遷都後の天安2年(858)に七条朱雀(現・中央市場のある七条千本付近)の歓喜寺に移されたのが起源といわれます。その後、戦乱で歓喜寺は荒廃しますが、権現堂のみは今日まで残ったということです。そして、明治45年(1912)、京都駅停車場(現JR京都駅)拡張による国鉄山陰線の敷設の影響で、旧地の西にある現在地に移されました。
権現寺の将軍地蔵堂には、将軍地蔵の他に、厨子王丸(ずしおうまる 厨子王 他に津子王、対王丸とも)の危難を助けたという身代わり地蔵が祀られています。厨子王といえば、姉の安寿と共に森鴎外の小説「山椒大夫」など小説や演劇の題材となった中世の説話「さんせう太夫」の主人公として知られる伝説上の人物です。
権現寺の門前には、世に「六条判官」と呼ばれた河内源氏の棟梁・源為義の石塔残欠を集めた供養塔があります。源為義は源氏の衰退期の棟梁として、「保元の乱(1156)」で処刑されたことで知られる人物です。
朱雀裏畑町にある「源為義墳墓」は、元々は千本七条にあり、上記したように、明治45年(1912)、京都駅停車場(現JR京都駅)拡張によって旧地の西にある現在地に移されました。千本七条は、当時の七条朱雀付近に当たり、「保元物語」によると、為義はこの七条朱雀野で斬首され(子供たちは、後日捕らえられ船岡山で処刑)、処刑後は北白河円覚寺(現廃寺)に葬られたということです。現在の「源為義墳墓」は、「保元物語」の伝承から後世、為義の最期の地とされた千本七条にその供養のために建てられたもののようです。墓の入口は鍵かがけられているため、墓域内には入れませんが、塀の外側から見ることができます。  (「厨子王丸の身代り地蔵&源為義の墓のあるお寺(権現寺) – 京都を感じ」より)]

権現堂資料リンク
都名所図会」・「巻之四 右白虎再刻 朱雀権現堂 (権現堂)」、「巻之四 右白虎再刻 権現堂解説」、「巻之四 右白虎再刻 爲義塚 (源爲義塚)」、「巻之四 右白虎再刻 源爲義の塚 (源爲義塚)解説
朱雀権現堂 (権現堂)(拡大図)

[図会中央に権現堂、左ページ上に水薬師寺が描かれています。]

権現寺 – Google Map 画像リンク」、「源為義墓 – Google Map 画像リンク

カメラ南方向が権現寺参道です。

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