道元禅師示寂の地

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道元禅師示寂の地
[道元(どうげん)は、鎌倉時代初期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。晩年に希玄という異称も用いた。同宗旨では高祖と尊称される。諡号は、仏性伝東国師、承陽大師。一般には道元禅師と呼ばれる。
徒(いたずら)に見性を追い求めず、座禅している姿そのものがであり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。『正法眼蔵』は、和辻哲郎ハイデッガーなど西洋哲学の研究家からも注目を集めた。
主な活動
建暦3年(1213年) 比叡山にいる母方の叔父良顕を訪ねる。
建保2年(1214年) 天台座主公円について出家し、仏法房道元と名乗る。
●建保3年(1215年) 園城寺(三井寺)の公胤の元で天台宗教学を修める。
●建保5年(1217年) 建仁寺にて栄西の弟子・明全に師事。
貞応2年(1223年) 明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受ける。その際の問答記録が『宝慶記』(題名は当時の年号に由来)である。
安貞2年(1228年) 帰国。
天福元年(1233年) 京都深草に興聖寺を開く。この頃、比叡山からの弾圧を受ける。
寛元元年(1243年)7月 越前国地頭波多野義重の招きで越前志比荘に移転。途中、朽木の領主佐々木信綱の招きに応じ、朽木に立ち寄る(興聖寺の由来)
●寛元2年(1244年) 傘松に大佛寺を開く。
●寛元4年(1246年) 大佛寺を永平寺に改め、自身の号も希玄と改める。
宝治2-3年(1248-49年)、執権北条時頼、波多野義重らの招請により教化のため鎌倉に下向する。鎌倉での教化期間は半年間であったが、関東における純粋禅興隆の嚆矢となった。
建長5年(1253年) 病により永平寺の貫首を、弟子孤雲懐奘(『正法眼蔵随聞記』を編す)に譲り、俗弟子覚念の屋敷(京都市高辻通西洞院通)で没す、享年54(満53歳没)。死因は悪性腫瘍とされる。
道元・wikipdia-photo、道元禅師示寂の地・wikipdia-photo  (wikipedia-道元より)]

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カメラ北方向が道元禅師示寂の地です。

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