長講堂

マーカーは長講堂です。

国立国会図書館デジタルコレクション – [洛中絵図・洛外絵図]. [2]」(コマ番号2/5・絵図四つ切左上、五条橋右上方向に長講堂が描かれています。)

長講堂
[長講堂(ちょうこうどう)は、京都府京都市下京区富小路通五条通下ル本塩竈町にある西山浄土宗の寺院。後白河法皇ゆかりとされる本尊の木造阿弥陀三尊像は重要文化財である。
後白河法皇が六条西洞院にあった御所・六条殿に寿永2年(1183年)頃に建立した持仏堂が元であったとされる。「長講堂」は本来は「法華長講弥陀三昧堂」と呼ばれ、法華経を講義し、阿弥陀仏を念じるための施設を指す一般名詞で同名の持仏堂が複数あったが、後白河法皇のものがもっとも著名で後世に伝わったために、長講堂と言えばこの施設を指すようになった。
文治4年(1188年)に火災で六条殿とともに焼失するが、後白河法皇は直ちに諸国に命じてその年のうちに再建された。建久2年(1192年)、法皇は42か国89か所に及ぶ自己の荘園を長講堂に寄進し、翌年の死に先立って長講堂ごと娘の覲子内親王に譲渡した。これらの所領群は後に「長講堂領」と呼ばれ、内親王の没後に紆余曲折の末に後深草天皇およびその子孫である持明院統が継承した。承元2年(1208年)、再び六条殿と長講堂が焼失すると、覲子内親王は一時土御門東洞院殿に移り、長講堂もその中に移転する。その後、元の場所に長講堂は戻されるが、土御門東洞院殿内の施設も引き続き別院として用いられた。その後、貞応元年(1222年)・文永10年(1273年)・建治3年(1277年)にも火災で焼失しているが、文永の火災後に後深草上皇の命により、土御門油小路に移転する。更に土御門東洞院殿の施設も光厳天皇以後、同殿が里内裏として固定化されたために応永8年(1401年)の火災に伴う再建の際に将軍足利義満の意向で土御門東洞院殿に内裏施設を再現するために長講堂に代替地を与えて立ち退かせた。
持明院統に継承された長講堂領は一時200か所にのぼり、応永年間にもなお112か所にのぼる荘園を保持していたが、応仁の乱後急速に不知行に至った。その後、天正16年(1588年)の豊臣秀吉による京都改造の際に現在地に移転した。現在の建物の多くが幕末禁門の変で焼失後に再建されたものである。
長講堂・wikipedia-photo

  (wikipedia・長講堂より)]

元六条御所長講堂
[長講堂は後白河上皇(1127~92)の持仏堂で,もともとは西洞院六条の六条院(六条御所)に所在していた。長講堂には膨大な荘園が附属しており,上皇の没後も王家(持明院統)の経済基盤として重視されたが,火災などによりたびたび移転し,天正年間(1573~92)に豊臣秀吉(1536~98)が寺町を整備した際に現在地に移転した。この石標は,元は六条院に所在していた長講堂を示している。
所在地 下京区富小路通六条上る東側(長講堂前)
位置座標 北緯34度59分38.8秒/東経135度45分49.5秒(世界測地系)
建立年 1935年
建立者 維持講会
寸 法 高290×幅49×奥行48cm
碑 文
[西]
元六条御所 長講堂
[東]
昭和十年四月建之維持講会
調 査 2002年10月11日  (「SI052 元六条御所長講堂 – 京都市」より)]

都名所図会」・「巻之二 平安城再刻 東九条判官塚・下寺町長講堂 (長講堂)・太子堂 (白毫寺)・本覚寺
東九条判官塚・下寺町長講堂 (長講堂)・太子堂 (白毫寺)・本覚寺(拡大図)

[図会右ページ右上に東九条判官塚、左下に太子堂 (白毫寺)、左ページ中央右に下寺町長講堂 (長講堂)、左下に本覚寺が描かれています。]

長講堂 – Google Map 画像リンク」、「元六条御所 長講堂 – Google Map 画像リンク

カメラ東南東方向が長講堂山門で、山門前右に元六条御所長講堂碑があります。

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