下御霊神社

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    国立国会図書館デジタルコレクション – [洛中絵図・洛外絵図]. [2]」(コマ番号3/5・絵図四つ切左上、御霊前町左に移転前の下御霊が描かれています。)

    下御霊神社
    [下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)は、京都市中京区にある神社である。旧社格は府社。社名は上御霊神社に呼応するものである。
    祭神
    祭神は以下の八柱で、「八所御霊」と称される。
    吉備聖霊(吉備真備とされることも多いが、吉備真備は憤死した人ではないので、神社側は六座の神霊の和魂と解釈している)
    ●崇道天皇(桓武天皇の皇太子、早良親王
    伊予親王(桓武天皇の皇子)
    ●藤原大夫人(伊予親王の母、藤原吉子
    ●藤大夫(藤原広嗣
    ●橘大夫(橘逸勢
    ●文大夫(文屋宮田麻呂
    ●火雷天神(菅原道真とされることも多いが、神社の創建は道真が天神とされるよりも以前なので、神社側は六座の神霊の荒魂と解釈している)
    相殿に天中柱皇神・霊元天皇を祀る。
    これらの諸神は(吉備真備を除いて)いずれも政争に巻き込まれて憤死した人々で、その怨霊を慰めるために創建されたのが当社である。
    末社
    ●稲荷社
    ●北野社
    ●伊勢社(内宮・外宮)(文政年間に建造)
    ●垂加社・猿田彦社(垂加神道を唱えた山崎闇斎を祀る、のち猿田彦社と合祀された)
    歴史
    桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊祟りであるとして、貞観5年(863年)5月20日、平安京神泉苑御霊会が催された。
    この御霊会が当社および上御霊神社の創祀であるとしている。古来より京都御所産土神として崇敬された。享保年間に霊元天皇の霊を配祀した。
    元は出雲路の上御霊神社の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったと伝えられる。後に新町出水に移され、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の都市整備にともない現在地に遷座した。
    なお、式内社研究家の志賀剛は延喜式神名帳に記載される出雲井於神社(式内大社)を当社に比定している。
    祭事
    明治までは神輿迎が7月18日に御霊祭は8月18日に行われていたが、明治以降は5月1日が神幸祭、18日が還幸祭と改められ、8月18日は例祭日と定められて東遊が奉奏される。現在では還幸祭は5月の第3か第4日曜日に行われており、宵宮では地域の小学校と連携した子供神輿も催されている。
    下御霊神社・wikipedia-photo  (wikipedia・下御霊神社より)]

    [本殿は天明8年(1788)に仮皇居の聖護院宮に造営された内侍所仮殿を,寛政3年(1791)に移建したもの。本殿幣殿・拝所・南北廊が,屋根を交錯させて一連の内部空間をつくる特異な社殿構成は,市内の御霊社に特有のものであり,なかでも当社殿は造営年代が古い。  (「京都市指定・登録文化財-建造物」より)]

    下御霊神社

    下御霊社資料リンク
    都名所図会」・「巻之一 平安城再刻 革堂 (行願寺)・下御霊社 (下御霊神社)」、「巻之一 平安城再刻 下御霊社 (下御霊神社)解説
    革堂 (行願寺)・下御霊社 (下御霊神社)(拡大図)

    拾遺都名所図会」・「巻之一 平安城 御霊神事 (御霊会)

    下御靈神社 – Google Map 画像リンク

    カメラ東方向が下御霊神社です。

    神門前のカメラです。

    神門内のカメラで、カメラ東方向に拝殿、左方向に手水舎があります。

    カメラ南東方向は拝殿で、拝殿後ろに本殿、本殿左に八幡宮・神明社・春日社、本殿右に五社相殿社、大国主命社、天満宮が、カメラ西方向には表門、手水舎、猿田彦社、稲荷社が、カメラ北北東方向には宗像社、社務所があります。

    下御霊神社拝所前のカメラで、カメラ反転方向は拝殿になります。

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