久保田藩佐竹家京錦小路屋敷跡

マーカーは久保田藩佐竹家京屋敷跡です。

[久保田藩は戊辰戦争では周囲の奥羽列藩を敵としたことで領地の2/3に及ぶ広範囲が戦火に晒され、しかも新政府軍に与して列藩同盟軍に攻撃された周辺諸藩の藩主・藩士や西国からの援軍の賄いをすべて久保田藩が負担したため、軍事費の面でも藩財政を締め上げた。戦後に政府から与えられた賞典は戦費・戦災にまったく見合わない少額に過ぎず、借財に耐えかねた久保田藩は加護山製錬所での貨幣鋳造で凌ごうとしたが、箱館戦争が終結した明治2年5月(1869年6月)に政府は各藩独自の藩札発行・貨幣鋳造を禁止した。久保田藩は禁止以後も密鋳を続けていたとして政府で問題視され(藩の内紛から密告が行われたと言われている)、明治4年末に元勘定奉行の佐藤時之助・大山茂治右衛門ら11人の大量処罰が行われた(秋田贋金事件)。この他にも八坂丸外債事件や初岡敬治事件などもあり、政府から厳しい目で見られることになった久保田藩は、廃藩置県直前に旧藩主佐竹義堯が「戊辰の功殆んど泡影に属し候様に立ち至り候」と嘆く事態に陥っていた。
京都柳馬場通四条上ルに京都藩邸を持つ。  (wikipedia・久保田藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863])」(絵図中央右下・柳馬場通四条上ルに佐竹と記述されています。)

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(1868)」(絵図中央右下・柳馬場通四条上ルに佐竹ヤシキが描かれています。)

カメラ位置は柳馬場通四条上ルで、カメラ西方向に久保田藩佐竹家京屋敷跡があったと思われます。