了頓図子

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了頓図子
[了頓図子(りょうとんのずし)
 中京区三条通室町西入衣棚町の中ほどから南に下り、六角通へ抜ける小路。安土桃山期の茶人広野了頓がここに邸宅(茶亭)を構え、邸内の南北通り抜けを許したため成立。『雍州府志』に「三條の南室町と新町之間也。相伝ふ。広野了頓、祖、元足利家の従臣にして足利義晴公・足利義輝公の時に至りて采地少しばかりあり。末裔に至りて、民間に流落し、この所に住す。剃髪して了頓と号す。はなはだ茶を嗜む。故に茶亭を構へ、常に釜を炉に置く。人来り訪ふときは、菓を供し、茶を点じて、これに逢ふ。豊臣秀吉公、播州姫路城にありし時、入洛の日、必ず新町三條の南、伊藤某の宅に寓せらる。伊藤と了頓と、その居、相近し。秀吉公、あらかじめ了頓に告げたまはず、一時、俄然として了頓が宅に入りたまふ。ここにおいて、を逆さまにして出でてこれを迎へ、茶亭に請ず。時に、釜湯、沸き騰る。すなはち茶を点じて、これを献ず。秀吉公もまた、茶を嗜む。故に、大いに了頓が志を感じ、すなわち家領を賜ふ。その末孫、今に到りて然り。故にこの町、了頓辻子と号す」とある。
 また、安土桃山期公卿であった山科言経(ときつね)の日記『言経卿記』にも、文禄三年(1594)五月十一日に徳川家康が了頓邸を訪れて、茶の湯を楽しんだとある。了頓は江戸時代に、徳川幕府から知行四百石を受けた。明治維新まで六角通に面して表門があり、将軍御成門と呼ばれた。  (「洛中(御池通とその周辺) 」より)]

廣野了頓邸跡
[江戸時代初期の地誌である「雍州府志(ようしゅうふし)」によると、足利家代々の従臣である廣野家は将軍義晴、義輝の時代にこの地を領有した。
 その後、安土桃山時代になって、末裔である廣野了頓は、剃髪してこの地に茶亭を構え茶道を広めた。
 当時、豊臣秀吉は、京に入洛した折に了頓邸を訪れ、茶を点じた了頓は、その縁で二百八十石の知行をあてがわれた。
 また、山科言経(ときつね)の日記「言経卿記」にも、文禄三年(1594)五月十一日に徳川家康が了頓邸を訪れて遊び、言経、吉田織部らも同席したことを記している。了頓は、江戸時代に入って、徳川幕府からも知行四百石を受け厚遇されて明治に及んだ。
 邸地は了頓の意志により、表門から裏門までの一般の通行が許され、表門は将軍御成門と称した。
 かってはこの付近には清水が湧き、井戸も多く、民家の裏には了頓井と称する井戸があった。
 了頓図子(小路)町という名は、実際にここに住した廣野了頓に由来して今に伝えられたものである。  京都市  

廣野了頓邸跡(ひろのりょうとんていあと)
将軍御成門跡(しょうぐんおなりもんあと)
この一帯には安土桃山時代の茶人廣野了頓の邸宅があったといわれる。廣野家は足利家代々の従臣で、将軍義輝の時にこの地を領有した。市井人となった了頓が、ここに茶亭を構え茶道を広め、豊臣秀吉もしばしば訪れたという。また、山科言経(やましなときつね)の日記、「言経卿記」にも文禄3年(1594年)5月11日に徳川家康がここを訪れ、言経、古田織部らも同席して茶の湯を楽しんだ様子が記されている。
明治維新前までは、六角通に面して表門があり、裏門まで一般の南北通り抜けを許したため、了頓辻子と呼ばれる小路が成立した。六角通面の町が玉蔵町(たまくらちょう)で あるため、玉蔵辻子とも称されたこの路は、夜間には通行を禁じ、表門を将軍御成門と呼んだといわれる。  京都市  (「茶人 廣野了頓邸跡、将軍御成門跡 – 京都散歩道」より)]

了頓図子町 – Google Map 画像リンク

カメラ南方向が了頓辻子です。

カメラ南東方向に廣野了頓邸跡の碑と案内板があります。

カメラ北方向が了頓辻子で、カメラ東北東方向に「廣野了頓邸跡 将軍御成門跡」案内板があります。

カメラ北方向に「廣野了頓邸跡 将軍御成門跡」案内板があります。

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