五色の辻

マーカーは吉井勇の「五色の辻」歌碑です。

五色の辻
[千切屋(ちきりや)は中世から続く京都の和装業の老舗一門。弘治年間に西村与三右衛門貞喜が法衣店「千切屋」を開いたのが始まりとされ、三条衣棚町を中心に分家・別家を含め最盛期には100軒を超えるほど繁栄した。一門に共通する「西村家」は商家としては京都最古の家系とされる。(存続する千切屋 – 千切屋吉右衛門家(千吉)千切屋治兵衛家(千治)千切屋惣左衛門家(千総))
西村与三右衛門貞喜(1533-1604)は江州甲賀郡西村の里(滋賀県甲賀市水口)に生まれ、弘治年間(1555-1558)に京に上り、三条室町西入るの北側に店舗を設けて「千切屋」と称し、妻の実家が織物業であった縁から金襴袈裟法衣等の裂地の仕立て販売を始めた。本家である与三右衛門家は、江戸時代初期に烏丸饅頭屋町に転居した。
工匠神人(神社に隷属した手工業者)だった遠祖が春日神社若宮祭事の時、興福寺衆徒の供進する千切花の台を毎年製作奉納していたと伝えられていることから、屋号を「千切屋」とし、千切台を上から見た四角形を3つ山型に配したものを紋とした。慣例として、分家・別家した一門にはこの紋を染めた布簾と千切台の図輻が本家より与えられた。
一門系図によると主たる同族数十家を算し、そのほとんどが法衣を業とし、一部が両替と呉服を扱っていた。最盛期には百余軒を数えた一門も安永5年(1776年)には62軒となった。寛政元年(1789年)には、衣棚町33戸中、13戸を千切屋が占め、町内総人口の半数にあたる使用人の3分の2以上が千切屋一門の雇人だった。同町の千切屋の数は享和(1801年)の頃より減り始め、幕末の元治元年(1864年)には衣棚町33戸中千切屋一門は4戸に減少するが、町内使用人の大多数は千切屋の雇人だった。衣棚町より転居する者、法衣業から他に転ずる者も少なくないが、一門の結合は固く、一門の繁栄を目的に価格等の統制をする祇園講、機屋と仲買に対して西陣織の仕入・販売値段の決定をする春日講が設けられていた。
五色の辻
千切屋一門の繁栄ぶりを表すものに五色の辻がある。江戸時代、三条室町の辺りは千切屋百軒といって、千切屋一門の家々が並び、辻(十字路)の東南の角は「赤壁」、南西の角は「黄壁」、東北の角は「青壁」、西北の角は「黒白壁」の五色だったことから、こう呼ばれた。吉井勇の歌「洛中の 五色の辻に 家居して み祖の業を いまにつたふる」を刻んだ歌碑が三条室町の西北角に設置されている。  (wikipedia・千切屋より)]

五色の辻 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は三条室町交差点で、五色の辻と呼ばれていました。カメラ北西方向に吉井勇の歌碑があります。