マーカーは伊藤若冲生家跡です。
伊藤若冲生家跡
[伊藤若冲は,京都錦の青物問屋「桝屋」に生まれ,かつては,早々に家督を譲って絵画三昧の生活を送っていたとされていました。しかし,近年,新たな史料が発見され,青物問屋の主人として,錦市場の営業許可を巡り命がけで奔走していたことがわかりました。
錦市場の高倉通側入口に「伊藤若冲生家跡」のモニュメントがあります。
また,アーケード下に,若冲の描いた絵画をモチーフに京都工芸繊維大学が制作したタペストリーを飾っています。 (「京都市:伊藤若冲ゆかりの地」より)]
[伊藤若冲が京都錦の青物問屋の生まれという事実はひろく知られている。若冲が描く絵画のなかには蕪、大根、レンコン、茄子、カボチャなどが描かれ、菜蟲譜(さいちゅうふ)という巻物には、野菜だけではなく柘榴や蜜柑、桃といった果物までが描かれている。極め付けは、野菜涅槃図で、釈迦の入滅の様子を描いた涅槃図になぞらえて、中央に大根が横たわり、その周囲には、大根の死を嘆くさまざまな野菜や果物たちが描かれている。
このようなユニークな作品は、若冲が青物問屋を生家とすることに由来しているといわれる。若冲は、次弟に家督を譲って、錦で絵画三昧の生活を送っていたとされていた。
しかし、近年、あらたな史料が発見されたことにより、錦市場における若冲のイメージが一変した。その史料とは、「京都錦小路青物市場記録」というもので、明和8年(1771)から安永3年(1774)までの錦市場の動向を伝える史料である。これによると、若冲は、錦市場の営業認可をめぐって、じつに細やかに、かつ、積極的に調整活動をおこなっている。その結果、錦市場は窮状を脱することになるのだが、若冲のこのような実務的な側面は、これまでまったく知られていなかった。若冲は、文字通り青物問屋の主人として錦市場に生きていたのである。 (「錦市場商店街 | 錦市場と伊藤若冲」より)]
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カメラ東方向が錦市場で、若冲の描いた絵画をモチーフにしたタペストリーが飾られ、錦市場入口右壁に伊藤若冲生家跡案内板が設置されています。