佐久間象山 大村益次郎遭難の地

マーカーは佐久間象山 大村益次郎遭難の地碑です。

象山先生遭難碑
[佐久間象山(1811~64)は,信濃国松代藩出身で兵学蘭学を学び,江戸勝海舟吉田松陰等に砲学を教えた。開国論を唱え,嘉永7(1854)年吉田松陰の米艦乗込事件に連座し,その後8年間松代で蟄居した。元治元(1864)年3月幕命で上京し,開国論を披瀝した。同年7月11日騎馬で山階宮家よりの帰途,この地で暗殺された。この石標は佐久間象山が襲撃された地を示すものである。
所在地 中京区木屋町通御池上る西側
位置座標 北緯35度00分42.2秒/東経135度46分13.4秒(世界測地系)
建立年 (1915年)
建立者 (象山先生遺跡表彰会)
寸 法 高200×幅70×奥行?cm
碑 文
[東]
象山先生遭難之碑
[東下段]
嘉永以後外舶叩關
国論沸騰挙主鎖攘
当是時佐久間象山
先生以絶特之識独
排群議而唱開国竟
以此取■実元治元
年七月十一日也後
五十餘年有志胥謀
立石以表其終焉之
地距此正東五十二
尺乃先生遭難処
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調 査 2002年2月5日
備 考 建立年・建立者は1915年11月1日付『京都日出新聞』による/裏面および側面未調査/碑文中■で示した文字は示+固のように見え禍の異体と解釈した  (「NA086 象山先生遭難碑 – 京都市」より)]

大村益次郎卿遭難碑
[周防国出身の大村益次郎(村田蔵六,1825~69)は,緒方洪庵等に医・蘭学を学んだ後,江戸に出て幕府の講武所教授等を歴任した。のち長州藩に仕え軍制改革を指導した。農民や町人の兵式訓練の必要を説き,第2次長州征伐戊辰戦争において卓越した指揮を行った。新政府では兵部大輔として近代兵制の樹立に尽力したが,明治2(1869)年9月4日関西の軍事施設視察時に,反対派浪士に襲われ,11月5日大阪で没した。この石標は大村が襲撃された宿の跡を示すものである。
所在地 中京区木屋町通御池上る西側
位置座標 北緯35度00分42.3秒/東経135度46分13.2秒(世界測地系)
建立年 1934年
建立者 高218×幅130×奥行66cm
寸 法
碑 文
[東]
大村益次郎卿遭難之碑
[東面下段銅鋳板]
大村兵部大輔諱永敏通称蔵
六後改益次郎周防国吉敷郡
鋳銭司村人文政七年三月十
日生 壮而博究東西諸邦兵
書安政三年任幕府講武所教
授文久元年転毛利藩兵学教
授慶応二年毛利藩与幕府開
釁隙大輔率藩兵連戦皆捷驍
名大振明治元年官軍戦於奥
羽函館参帷幄奏偉功二年任
兵部大輔陸海軍制及国民徴
兵之制竝定之基礎八月入京
都寓木屋町籌将設立兵学寮
及機器局 九月四日夜為刺
客所襲創甚十一月五日隊薨
年四十七十三日朝廷録其功
特旨贈従三位大正八年追陞
従二位
昭和九年七月
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調 査 2002年2月5日
備 考 裏面および側面未調査  (「NA084 大村益次郎卿遭難碑 – 京都市」より)]

佐久間象山・大村益次郎遭難之碑 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向、右が象山先生遭難碑・左が大村益次郎卿遭難碑です。

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