六角獄舎

マーカーは平野国臣外数十名終焉趾の碑です。

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六角獄舎
[六角獄舎(ろっかくごくしゃ)は平安時代に建設された左獄・右獄を前身とする京都の牢獄である。正式名は三条新地牢屋敷。移転を繰り返して宝永5年(1708年)の京都大火以降に中京区六角通りに移転されてからは六角獄舎または六角獄、六角牢などと呼ばれるようになった。
宝暦4年(1754年)、医学者・山脇東洋京都所司代の許可を得て日本で初めて人体解剖を行った場所が六角獄舎である。解剖には死刑囚が用いられた。
幕末の混乱の中、井伊直弼安政の大獄による政治犯や過激な尊皇攘夷派志士らが多く捕らえられて処刑されるようになる。しかし反面、尊皇攘夷思想の強い囚人が集まったため牢内で囚人達に尊皇論を説いたり同志と知り合ったりなどという事もあったらしい。
元治元年7月19日(1864年8月20日)に始まった禁門の変に伴い生じた火災(どんどん焼け)は、京都市中に広がり六角獄舎にも及ぶ恐れが生じた。管理を任されていた京都町奉行官吏は過激な志士達の脱走を恐れて、いまだ判決が定まっていなかった生野の変首謀者・平野国臣など囚人33人を斬罪に処してしまう。しかし六角獄舎に火は回って来なかった。これについて、安政の大獄で捕らえられていた村井正礼が記した手記『縲史』に当時の生々しい記録が残る。さらに、先月の池田屋事件の折に捕縛されていた尊皇攘夷志士(古高俊太郎ら)も斬罪。この件は新選組の仕業と疑われるようになる。
明治以後、監獄から保護施設として改築された。斬首に使われた刀を洗う「首洗井」が埋め立てられてはいるが跡地に現存しており、密かな心霊スポットになっている。
明治維新後、徒刑場は二条城近くに移転したものの、六角獄舎は1885年(明治18年)までは分監として利用された。 その後、跡地を利用して、出獄したものの身寄りのない者の引受・厚生施設として設立された財団法人・京都感化保護院が獄舎跡地に移転した。敷地については市から無償貸与を受けていたが、1916年(大正5年)には無償譲渡を受けている。 1991年(平成3年)、施設の北側が不動産会社に売却され、その資金で感化保護院の改築を行った。不動産業者に売却された部分にはマンションが建築され、現在に至っている。
六角獄舎跡・wikipedia-photo  (wikipedia・六角獄舎より)]

平野国臣外数十名終焉趾
[平野国臣(1828~64)は、福岡藩出身の尊王攘夷派の志士で脱藩して京都で活躍。新選組に追われながら生野の変を起こすが失敗、捕えられこの地にあった六角牢獄に入れられた。元治元(1864)年7月20日、前日の禁門の変で起きた火災が六角牢獄に迫り、入牢者の破獄を恐れた幕府役人により平野国臣はじめ古高俊太郎・長尾郁三郎等三十数名の志士が斬首された。この石標は平野国臣等が処刑された六角牢獄の跡を示すものである。
所在地 中京区六角通神泉苑西入南側
位置座標 北緯35度00分26.6秒/東経135度44分47.9秒(世界測地系)
建立年 1928年
建立者 京都市教育会
寸 法 高118×幅19×奥行18cm
碑 文
    [北]
    勤王
     平野国臣外数十名終焉之趾
    志士
    [東]
    京都市教育会
    [西]
    昭和三年九月
調 査 2002年2月5日  (「NA097 平野国臣外数十名終焉趾 – 京都市」より)]

日本近代医学発祥地NA096
[山脇東洋(1705~62)は,山脇玄修(1654~1727)に医学を学び,その養子となった。この地にあった六角牢獄で宝暦4(1754)年,男の刑死人の解剖を行い,実地について人体構造を観察した。著書にこの時の解剖記録『臓志』がある。その解剖は,杉田玄白(1733~1817)の『解体新書』を遡ること17年前のことであった。この石標は,山脇東洋が日本で最初の解剖を行った六角牢獄の跡を示すものである。
所在地 中京区六角通神泉苑西入南側
位置座標 北緯35度00分26.6秒/東経135度46分13.4秒(世界測地系)
建立年 1976年
建立者 (山脇東洋顕彰会)
寸 法 高124×幅19×奥行19cm
碑 文
    [北]
    日本近代医学発祥之地
    [東]
    山脇東洋顕彰
    [西]
昭和五十一年三月
調 査 2002年2月5日  日本近代医学発祥地(NA096)より)]

カメラ南東方向・塀内に六角獄舎跡 平野国臣殉難の地碑と山脇東洋観臓之地の石碑舎があり、塀前に平野国臣外数十名終焉趾碑と日本近代医学発祥地碑があります。

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