加賀藩邸跡

マーカーは加賀藩邸跡碑です。

加賀藩邸跡
[加賀藩前田家の藩邸は,天明8(1788)年焼失し,その後再築された。慶応2(1866)年,鳥羽伏見の戦に出兵したが,幕軍の敗北を知り引き返した。戊辰戦争には官軍につき北越で戦った。藩邸は明治維新後は上地され,一時は府知事邸となっていたが,太平洋戦争末期に建物疎開で御池通の一部となった。この石標は加賀藩邸の跡を示すものである。
所在地 中京区木屋町通御池西南角
位置座標 北緯35度00分38.5秒/東経135度46分14.0秒(世界測地系)
建立年 1968年
建立者 京都市
寸 法 高96×幅18×奥行19cm
碑 文
[北]
加賀藩邸跡
[東]
昭和四十三年十一月 京都市
調 査 2002年2月5日  (「NA075 加賀藩邸跡 – 京都市」より)]

[この付近加賀藩邸跡
 この高瀬川の西側、河原町通にいたる間は、江戸時代、加賀(石川県)藩の藩邸があった。藩邸がはじめておかれたのは、江戸初期で、古絵図には高瀬川の橋に、加賀橋の名が残っている。藩邸には留守居役が詰め、町人の御用掛を指名して、各種の連絡事務にあたった。
 加賀藩は江戸時代外様の最大の大名で、百二万七千石。前田家が代々藩主。幕末の加賀藩は、激動する政局の中で活躍することは少なかった。五代綱紀(つなのり)は学問芸術を愛好して文治(ぶんち)政治を行った英主で、東寺の古文書を整理するなど京都との関係は深く、この伝統はその後もうけつがれた。この藩邸は、こうして文化的に京都と加賀を結びつける上に大きな役割を果たした。  京都市  (「Google Map 画像リンク」より)]

[幕府の成立段階では加賀藩の京都屋敷は存在せず、大坂の陣では前田利常が嵯峨や北野などに宿陣していたように、藩主が上洛した際は毎回異なるところに宿陣する状況であったとおもわれます。その後については、「越登賀三州志」に「三条河原町ニ呉服所三宅庄兵衛(当時は三宅次郎兵衛)ヲ地主トシテ邸ヲ買取ラセラレ旅館ヲ造ル」とあり、近年の研究成果では万治3年(1660)の段階で藩が河原町三条に屋敷を取得していたことが明らかにされています。そして、享保5年(1720)には東海道まわりで帰国した藩主前田綱紀がこの河原町三条邸に入り、各方面に出向いています。この河原町三条邸は高瀬川の水運を利用できる位置にあり、長州藩邸に隣接していました。
幕末期には藩主前田斉泰とその嫡男である前田慶寧がたびたび上洛しますが、すべて建仁寺に入り滞在しています。これは、随従する多くの藩士を京都に滞在させるには河原町三条邸では規模が小さかったためとおもわれますが、建仁寺全体を借り受けたわけではなく、必要な範囲にかぎって借り受けました。さらに、元治元年(1864)に当時世嗣であった前田慶寧が京都警衛を命令されたことから新しい陣屋の地を岡崎村に借り受け、慶応3年(1867)8月には賜邸にしたいと願い出て幕府に了承されています。この岡崎屋敷の規模は河原町三条邸と比較しても格段に大きく、ここに警衛のための軍事力を駐屯させていました。
以上から、加賀藩の者たちが京都において拠点としていたのは、近世初期から藩邸の機能を有していた河原町三条邸のほか、幕末期には建仁寺と岡崎屋敷があったことがわかり、とりわけ建仁寺と岡崎屋敷は幕末期における加賀藩の軍事的な拠点として機能していたと考えられます。
京都屋敷詰人(奉行)は慶長末年から元和初年には存在したことがわかっていますが、河原町三条邸が成立するにおよび、大小将・馬廻の各組から1年に2名を奉行として派遣し、1人は6月、もう1人は10月に交替するように制度化され、その後両名とも馬廻組から勤めることとなり、さらに寛政6年(1794)4月以降は2名のうち1名は会所奉行から任命されるようになります。「北藩秘鑑」にも「奉行弐人、一人ハ会所奉行ゟ(より)四月代、一人ハ御馬廻御番人三百石以上位ゟ十月代」と記されており、幕末期に会所奉行を勤めた人物が京都詰を任命されていることからも、この体制が幕末まで継続していたことがわかります。また、京都詰全体としては、「北藩秘鑑」には奉行2名のほか、御歩横目1名、算用者2名、足軽8名、小者4名が詰めていたとあります。職務内容については、京都屋敷詰人であった高畠五郎兵衛が安永5年(1776)に記した「京都御用相勤申節之日記」をみると、算用の把握や商人への利息支払いという財政面、そして在京藩士らの扶持米管理や交替手続きなどの人事面を管理していたことがわかる一方、日記にはそのほかの詰人らの外出時間も詳細に書き留められており、彼らの行動を奉行である高畠が責任者として把握していたこともわかります。そのほかにも禁裏をはじめ、公家や他藩との応接、江戸や国許における必要物資の購入など、多岐にわたる職務が確認でき、さらには大津にいる藩士や蔵屋敷も管理して廻米売却という藩財政に関わる職務もこなしていたことも日記からうかがえます。  (「加賀藩と京都」より)]

中井家絵図・書類 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」 – 「寛永後萬治前洛中絵図(出版年 1642)」(絵図下に七つの舟入時代の高瀬川が描かれ、中央に松平長門守と描かれています。織田邸手前までが長州藩邸になると思います。絵図は1642年の物ですが、1660年に織田邸周辺が加賀藩邸になると思います。)

国立国会図書館デジタルコレクション – [洛中絵図・洛外絵図]. [2]」(コマ番号2/5・絵図四つ切左下、本能寺左に松平加賀守と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全」(文久3 [1863] – 絵図中央右方向、本能寺右上に加賀と記述されています。)

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(成立西暦・1868年)」(絵図中央右方向・三条大橋左上方向角倉下に長州ヤシキ、その下に加州と描かれています。)

国際日本文化研究センター – 都15号 假製二万分一 京都(明治22・1889年)」(地図四つ切右下・御所御苑の右下、鴨川左高瀬川一之船入下の区画が長州藩邸跡で、その下の区画上半分が加賀藩邸跡になると思います。加賀藩邸跡の大部分が御池通りとなります。)

加賀藩邸跡 – Google Map 画像リンク

カメラ南西方向に加賀藩邸跡碑と案内板が設置されています。