千切屋治兵衞(株)

マーカーは千切屋治兵衞(株)です。

千切屋
[千切屋一門は藤原不比等を祖とし、奈良時代春日大社の神人工匠(宮大工)をしていました。年に一度花を生ける千切台を奉納した事から千切花の家紋を使うようになったといわれ、後に屋号も「千切屋」としました。建設業であるところから平安京建設に参加し、以後、京都に居を移しましたが、応仁の乱により再び近江国甲賀郡西村に疎開しそのとき以来西村を姓としました。他にも京都の老舗一族には西村という姓がありますが、それは応仁の乱のとき甲賀郡西村に疎開した人たちの末裔だとも言われています。
1555年(弘治元年)西村与三右衛門貞喜は妻の実家である本島氏が三条室町で法衣業を営んでいたところから、その援助を得て同地で法衣業を営むことになりました。妻の実家に援助してもらっていたとは、後の隆盛からは考えられない情けないスタートだったと思います。しかしタイミングは最高でした。この年は、毛利元就厳島の合戦で勝って頭角を現した年、すなわち大小豪族が混乱の中で群雄割拠する室町的戦国時代が終わり、少数の強力な戦国大名が天下平定というゴールを目指して戦う近世的戦国時代の始まりだったと思えるからです。
西村与三右衛門貞喜は、千切屋一門の中興の祖として現在も祭られており、その命日には一門(千治・千總・千吉)が集まるそうです。江戸時代になると法衣業から呉服業へと転業しました。戦乱の世においても宗教にだけは金が集まっており、だから法衣業をしていたのが、戦乱がなくなって一般の消費が回復すると呉服業に転業したということで、よく世の中の流れをとらえていたのです。
貞喜から数えて3代目には3人の男子がいました。長男が与三右衛門の名とともに継いだ本家は後に断絶してしまいましたが、次男が治兵衛、三男が宗(總)左衛門を名乗って分家し、それぞれ千切屋冶兵衛(千治)、千切屋總左衛門(千總)の祖となりました。さらに5代目から分家した人に吉右衛門という人がありそれが千吉の祖となり以上3家が近代まで残った千切屋一門です。江戸時代には他にも吉左衛門、宇兵衛、五兵衛など最大時には100家以上の分家があったといわれています。  (「 友禅の制作者 – 千切屋治兵衞」より)]

[本家の千切屋与三右衛門家は明治期に絶家となったが、千切屋吉右衛門家(千吉)、千切屋治兵衛家(千治)、千切屋惣左衛門家(千総)の分家は現在も京都の和装産業の老舗として営業を続けている。
●千切屋治兵衛家(千治) – 2代目与三右衛門から分家した玄貞の子・尚貞が治兵衛を名乗り、代々それを襲名し、千切屋治兵衛を略した「千治(ちじ)」を社名とした。現・千切屋治兵衞株式会社。京友禅呉服製造卸業を営んでいる。明治期の当主・西村治兵衛14代(1861-1910)は19歳で先代の養嫡子となり、若い頃より西陣織物商組合長や京都商工銀行副頭取などを皮切りに、京都商業会議所理事、京都染呉服商組合長、京都商工貯金銀行頭取、京都市常設勧業委員長、京都市教育委員長などを歴任、1900年には農商務省の依頼で絹物の海外販路調査のため欧米を視察、帰国後も京都商工会議所会頭など重役を歴任、1904年のセントルイス万国博覧会では織物審査官副議長を務め、1908年には衆議院議員となり、翌年渋沢栄一率いる渡米実業団に参加するなど精力的に活躍した。  (wikipedia・千切屋より)]

カメラ東方向が千切屋治兵衞(株)です。(※画像は2013年3月で画像の建物は改築されています。千切屋治兵衞(株)現在の社屋は京都府京都市中京区新町通四条上る小結棚町426番地の1 新町錦ビル5F)

2018年3月の画像

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