マーカーは南蛮寺跡碑です。
南蛮寺跡
[京都の南蛮寺建設の経緯は、ルイス・フロイスが1577年9月19日付で臼杵から発信した書簡に詳述されている。
イエズス会が以前から京に建てていた教会堂が老朽化したため、1575年宣教師たちの協議の結果再建が決定した。当初は仏教の廃寺の建材を流用することが意図されたが、価格面で折り合いがつかず、新たに建てることとなった。オルガンティノが指揮を取った教会堂の建設に当たっては、高山図書(ずしょ、洗礼名ダリオ)をはじめとする畿内のキリシタン有力者の協力と寄進が寄せられ、寄進とイエズス会の出費をあわせた総工費は約3,000クルザードに達し、当時日本に建てられた教会堂でも最大級の規模のものとなった。
都の南蛮寺の正式名は「被昇天の聖母教会」であり、献堂ミサも会堂の落成に先立つ1576年8月15日(聖母被昇天の祝日)に行われた。教会堂の所在地は中京区姥柳町蛸薬師通室町西入ル付近と推定される。その後1587年、豊臣秀吉によるバテレン追放令後に破壊された。
この教会堂は、狩野宗秀筆の扇面洛中洛外図六十一面中「都の南蛮寺図」によって、建物を特定した絵画資料が残る唯一の例である。同図から以下のことが推測できる。
木造瓦葺、3層楼閣風の建物である。
屋根は最上層が入母屋造、1,2層は寄棟造。
2層の周囲には見晴らし用の廊下と手すりが配されている。
同時期の南蛮屏風の描写では屋根の上に十字架と思しきものが描きこまれるが、この扇面図では省略されている。
1層の細部や内部については扇面図からは不明だが、上記フロイスの書簡には以下のような記事が見られる。
キリシタンの身分ある女性が畳100畳を寄進したこと。
京の職人の水準の高さへの言及。
「イタリア人のオルガンティーノ師の建築上の工夫」への言及。
以上のことから、日本人大工・職人の手による和風を基本としながら、ヨーロッパ特にイタリアの建築様式やキリスト教に関連するモチーフが加味されたものと推測される。
「南蛮寺址、京都市中京区蛸薬師通室町西入北側」・wikipedia-photo (wikipedia・南蛮寺より)]
「此付近南蛮寺跡」の説明板
[織田信長の時代に、耶蘇会(イエズス会)によって建てられ、京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心となった「南蛮寺」は、この北側、姥柳町(うばやなぎちょう)の辺りにあったといわれている。
戦国末期、京都でのキリスト教布教は永禄二年(1559)から本格化し、永禄四年(1561)にこの付近にも礼拝堂が設けられた。数々の迫害に遭いながらも、宣教師は布教に努め、信長の保護もあって信者は増加した。天正四年(1576)、数百人の信者の協力と所司代村井貞勝の援助により、古くなった礼拝堂が再建され、七月十六日に献堂式のミサが行なわれた。これが南蛮寺で、信者の間では珊太満利亜(さんたまりあ)上人の寺とも呼ばれた。
しかし、天正十五年(1587)六月、九州征伐を終えた豊臣秀吉は宣教師追放例を発し、キリスト教の弾圧に転じた。南蛮寺もその時に破壊され、この地に復興されることはなかった。
京都市]
南蛮寺跡碑
[南蛮寺は,切利支丹寺・伴天連寺等ともいう16世紀後半のキリスト教布教所の俗称。京都における最初の南蛮寺は,永禄12(1543)年[※永禄2年(1559)?]この地に建立され,年号を寺号とし永禄寺と称したが,南蛮寺と固有名詞のように称されるようになった。方四町,和風三階建てで『洛中洛外名所扇面図』に描かれている。天正16(1588)年豊臣秀吉(1536~98)の伴天連追放令に伴い破却された。この石標はその跡を示すものである。
所在地 中京区蛸薬師通室町西入北側
位置座標 北緯35度00分21.8秒/東経135度45分26.8秒(世界測地系)
建立年 1970年
建立者 京都市
寸 法 高98×幅16×奥行19cm
碑 文
[南]
此付近南蛮寺跡
[西]
昭和四十五年三月 京都市
調 査 2002年2月5日 (「NA053 南蛮寺跡 – 京都市」より)]
カメラ東北東方向に南蛮寺跡碑及び説明板があります。