善想寺(泥足地蔵尊)

マーカーは善想寺(泥足地蔵尊 汗だし地蔵尊)です。

国立国会図書館デジタルコレクション – [洛中絵図・洛外絵図]. [2]」(コマ番号2/5・絵図四つ切右下、三条通上尾町上方向に善想寺が描かれています。)

泥足地蔵尊(汗だし地蔵尊)
[京に都が開かれた千二百年前から世の人々の心を受け止めてこられた本地蔵尊は、比叡山延暦寺開祖、伝教大師最澄念持仏の菩薩であります。
大師亡き後は滋賀県坂本村にまつられていましたが、天正15年(1587年・安土桃山時代)の3月23日、当山善想寺開山正誉上人がご縁を以って、この寺にお迎えして山門の横に地蔵堂を造り、諸人がお参りしやすくしました。
泥足地蔵尊のいわれは、坂本村にまつられていた時のもので、当寺日照りが続き、作兵衛が三日三夜地蔵尊に祈念すると大雨が降り百姓さんたちは田植えを終えることが出来ましたが、作兵衛は腹痛のため植え付けを出来ず、心配した百姓さん達が翌朝見に行くと田植えがすでに終わっています。不思議に思い地蔵尊にお礼参りにいくと、御腰から足にかけて一面泥にまみれておられ、このお地蔵さんが田植えせられたものと知れ、それから泥足地蔵尊、身代わり地蔵尊と云い信仰されました。
汗出し地蔵尊のいわれは、善想寺門前にまつられた京でのこと、文化5年秋、堺町の勘兵衛は妻の難産で一日一夜お祈りしていると、家から安産の報せがあり地蔵尊に御礼を申し上げるとお顔一面に玉のような汗が流れていました。それ以来、汗出し地蔵尊、身代わり地蔵尊と呼ばれ信仰されてきました。  (「泥足地蔵尊 | 永代供養による納骨・墓地の分譲/京都 善想寺」より)]

石仏阿弥陀如来
[天元2年(979年)から元弘建武の京都の戦(1331~4年)で御殿が廃墟となるまでの350年間、この場所を「四条後院」といいました。後院とは天皇の譲位後の御所で、天元3年11月の大内裏炎上の後、円融天皇は四条後院に行幸され一時皇宮となりました。善想寺の石仏阿弥陀如来はこの後院の中にまつられていたものです。石仏は花崗岩、白川の赤石といわれるもので、その石が石仏に使われる時期は限られ、800年以上前の、平安後期といわれています。高さ1.6m厚さ70cmの自然石の大きな光背を背に台座に座し,像高90cmの阿弥陀仏は引き締まった慈悲感があふれ、重厚で安定感があり、悠々とした弥陀石仏です。元弘、建武の戦の折、石仏を守るために土中に埋めました。そして430年前この地が善想寺境内となってのち、石仏は出土されました。
現在は墓地内入り口におまつりしています。石仏は後院内にまつられてより800余年のあいだこの地を見守ってこられました。  (「石仏 阿弥陀如来(平安後期造立) | 永代供養による … – 善想寺」より)]

泥足地蔵尊 – Google Map 画像リンク」、「大悲山 松樹院 善想寺 – Google Map 画像リンク

善想寺のストリートビューで、南方向が善想寺山門で、山門右に地蔵堂があります。

善想寺本堂のストリートビューです。

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