マーカーは壺井です。
壺井地蔵尊
[この地に壺井という井戸があり,黒川道祐「太秦村行記」によればこの井戸から地蔵尊像が出たので,壺井地蔵と称し安置されたという。この石標は壺井地蔵が出た壺井を示すものである。
所在地 中京区西ノ京北壺井町
位置座標 北緯35度00分57.3秒/東経135度43分47.8秒(世界測地系)
建立年 1941年
建立者
寸 法 高100×幅17×奥行12cm
碑 文
[北]
古蹟 壺井地蔵尊
[西]
川井
昭和十六年十一月入江子供中
江原
調 査 2003年11月26日 (「NA138 壺井地蔵尊 – 京都市」より)]
[西大路太子道の北側に「西土手刑場趾」があります。その刑場で処刑される囚人たちが市内引き回しの末、斬首される前に立ち寄って末期の水をいただいたのが「壺井」です。
その壺井は、春日通りと太子道通りの交差点にあるのですが、「壺井地蔵堂」は、そこから太子道通りをもう少し西に行ったところにあります。
この太子道通りというのは、その名の通り「太子」が通った道です。「太子」というのはもちろん「聖徳太子」で、向かった先は太秦にある「広隆寺」です。現在は細い、微妙にくねくねと曲がった道なのですが、昔は丹波地方に続く幹線道路でした。人の往来も多く、にぎわった街道だったようです。
「壺井」は奈良時代の僧、行基がの野に湧く水を発見し、その水と薬を一緒に飲むと疫病に効いたことから霊験あらたかな井戸水として知れ渡り、長きにわたって庶民に愛された井戸でした。広隆寺参りや丹波に行く人々や馬などに利用された井戸でした。江戸時代にこの「壺井」から、ツボに収められたお地蔵さんが見つかったことから「壺井地蔵」と呼ばれて祀られたそうです。 (「壺井地蔵堂 現代にも続く遺志|ガイドブックに載らない京都」より)]
カメラ南方向が壺井です。
カメラ南南西方向が壺井堂(壷井の茶所)になります。(Google Map)