大垣藩戸田家京屋敷跡

マーカーは大垣藩戸田家京屋敷跡です。

[戸田 氏共(とだ うじたか)は、嘉永7年(1854年)7月23日、美濃国大垣藩第9代藩主戸田氏正の五男として生まれる。慶応元年(1865年)10月3日、長兄の第10代藩主氏彬の病死により、その末期養子として家督を継いだ。慶応4年(1868年)1月10日、鳥羽・伏見の戦いの敗戦により、新政府から朝敵として入洛禁止を命じられた。そうした状況のなか、家老小原鉄心が藩論を勤王・恭順にまとめ上げた。同年1月16日、氏共は直ちに上洛して新政府に謝罪し、官軍の東山道鎮撫使の先鋒役を務めることになった。4月15日、正式に朝敵から除外され、戦後は一転して賞典禄が授与された。  (wikipedia・戸田氏共より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863])」(絵図中央右上・富小路二条下ルに戸田と記述されています。)

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(1868)」(絵図中央右上・富小路二条下ルに大垣と記述されています。)

カメラ位置は富小路二条下ルで、カメラ東方向に大垣藩戸田家京屋敷跡があったと思われます。