大極殿(大内裏内)跡

マーカーは大極殿遺址碑です。

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大極殿(大内裏内)跡
[平安宮跡 上京区千本丸太町附近
 平安宮跡は,市街化で大規模な発掘調査をすることがむずしい場所です。それでも朝堂院(大極殿)や豊楽院(豊楽殿)の建物基壇,内裏内部回廊跡の雨落溝,官衙地域の建物跡・築地・側溝等の遺構が見つかり,発掘された遺物からも平安宮のようすを推測することができます。
 千本丸太町交叉点北西にある内野児童公園内には,明治28(1895)年に建てられた「大極殿遺址(だいそくでんいし)」の碑があります。しかし,最近の発掘調査によって大極殿の中心部はちょうど千本丸太町交叉点のすぐ北方附近であることが判明しており,現在,交叉点北西および南東角に詳しい説明板が設置されています。ここから南に朝堂院の建物群が立ち並び,さらに朱雀門(すざくもん,中京区千本通押小路上る東側に石碑がある)からまっすぐに平安京のメインストリートである朱雀大路(現千本通)が南へ延びていました。
 交叉点から西へ行くと国指定史跡である豊楽殿跡(中京区聚楽廻西町)があり,交叉点の北東には内裏がありました。下立売通の発掘調査によって内郭回廊跡(土屋町通西入南側)や承明門跡(しょうめいもんあと,浄福寺通西入南側)など多くの遺構が見つかっており,出土した資料などは京都市考古資料館(上京区今出川通大宮東入元伊佐町)で展示しています。
 平安宮(大内裏)は,現在の二条通が南限で,北は一条通,東は大宮通,西は御前通が境界にあたります。その大きさは,東西約1.2キロメートル,南北約1.4キロメートルの長方形で,面積は49万624坪(約1.7平方キロメートル)になり,現在の京都御苑(約0.914平方キロメートル)の約2倍の大きさがありました。  (「文化史07 内裏から京都御所へ – 京都市」より)]

[大極殿とは大内裏朝堂院の正殿で,即位等国家的儀礼や諸政が行われる場所であった。貞観18(876)年,創建後初めて焼失し,再三の被災で修復再建が繰り返されたが,安元3(1177)年の大火で焼失して以降,再建されなかった。明治28(1895)年,平安遷都千百年紀念祭にあたり,湯本文彦が平安京の実測を行い大極殿をこの地に比定した。この石標はその比定地を示すものである。なお,現在はこの位置より南東で遺跡が見つかっている。
所在地 上京区千本通丸太町上る西側(内野児童公園内)
位置座標 北緯35度01分08.9秒/東経135度44分32.0秒(世界測地系)
建立年 1895年
建立者 京都市参事会  (「KA024 大極殿遺址碑 – 京都市」より)]

大極殿
[大極殿(だいごくでん)は、古代の朝廷正殿宮城(大内裏)の朝堂院の北端中央にあり、殿内には高御座(たかみくら)が据えられ、即位の礼や国家的儀式が行われた。中国の道教では天皇大帝の居所をいう。「大極殿」の名は、万物の根源、天空の中心を意味する「太極」に由来する。すなわち、帝王が世界を支配する中心こそ「大極殿」の意である。
平安宮朝堂院模式図

  (wikipedia-大極殿より)]

大極殿遺阯碑 – Google Map 画像リンク」、「平安宮朝堂院 大極殿跡 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は千本通で、カメラ西方向に大極殿遺址道の碑があり道先の内野児童公園内に大極殿遺址碑があります。

カメラ東南東方向植え込みに大極殿遺址案内板があります。

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