姫路藩酒井家京都屋敷跡

マーカーは姫路藩酒井家京都屋敷跡です。

[享保2(1717)年ごろにまとめられた『京都御役所向大概覚書』の「京都大名屋鋪・拝領地並買得屋鋪之事」には、「拝領買得屋鋪数合九十六ケ所」が列記されている。その冒頭には藤堂和泉守の「東堀川通蛸薬師下ル町」の屋敷が書かれ、二つ目には播州姫路酒井雅樂守の「東堀川通二條上ル町」の屋敷が記載されている。  (「藩邸 – 国土地理協会」より)]

[播磨姫路藩第8代藩主酒井忠績は文久2年(1862年)5月、幕命により京都守衛と京都所司代臨時代行の特命を帯びて上洛・入京した。安政の大獄期に京都所司代に就任した若狭小浜藩主・酒井忠義は、万延元年に桜田門外の変大老井伊直弼が暗殺された後も引き続きその職にあり、罷免を朝廷から要求されていた。幕府は忠義を罷免し、後任として大坂城代松平宗秀を内定したが、宗秀も安政の大獄当時は寺社奉行の任にあり直弼の信任が非常に厚かったため、朝廷は宗秀の所司代就任にも内諾を与えなかった。このため所司代職は空席という、開幕以来の異常事態となっていた。このため、9月末に牧野忠恭が後任の所司代として正式に承認されるまで4か月間、臨時所司代の任にあたった。
京都市中警備の功績により、文久3年(1863年)6月18日に老中首座となる。  (wikipedia・酒井忠績より)]

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(1868)」(絵図中央・二条御城右に姫路ヤシキが描かれています。)

カメラ位置は東堀川通/二条通交差点で、カメラ北東方向一画が姫路藩酒井家屋敷跡になると思います。