対馬藩京屋敷跡碑(桂小五郎寓居跡)

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対馬藩京屋敷跡碑(桂小五郎寓居跡)
[幕末の志士、桂小五郎が寓居(ぐうきょ)とした対馬国の大名・宗氏の京屋敷跡(京都市中京区)の近くに、NPO法人京都歴史地理同考会(中村武生理事長)が石碑を建立した。池田屋事件にも関連する新たな歴史舞台の証しとして道行く人の目を引いている。
 石碑の場所は、姉小路通木屋町西入ルの民家前で、対馬藩(現長崎県)の藩邸跡の東側に位置する。同会は2008年から各地に石碑を建てていて、今回12カ所目の石碑は高さ約1メートル。市民の寄贈による建立で、「徳川時代対馬宗氏屋敷跡」と「桂小五郎寓居跡」と刻まれ、地域の歴史の説明板も設置した。
 朝鮮との通交を担っていた宗氏は毛利氏と縁戚で、長州藩士の桂が対馬藩邸を居所の一つとしていた。「乃美織江手記」では、1864年の池田屋事件で新選組に襲撃された桂が三条通沿いの池田屋から北側の対馬藩邸へ屋根をつたって逃げたとされている。  (「桂小五郎も寓居、対馬国京屋敷跡に石碑建立 京都のNPO : 京都新聞」より)]

[元治元年6月5日(1864年7月8日)の池田屋事件の際に、織江は河原町の長州藩邸の邸門を閉ざした責任者であった。翌日、長州藩邸のすぐ近くで死亡していた吉田稔麿を自ら発見し、長州藩に報告した。同時に、「桂小五郎が殺された」と時期尚早に長州藩に誤報を知らせ長州藩内を過剰に激昂させてしまう失態を犯した。更に桂が生きていると対馬藩邸から秘かに伝えられるや否や、今度は「桂小五郎は屋根伝いに逃げたらしい」と、またもや誤報を藩に報告し、桂を非常に苦しい立場に追いやってしまった。
池田屋事件は新撰組局長・近藤勇の報告によれば即死7名・負傷4名・捕縛23名であり、宮内省『殉難録稿』によれば池田屋に参集していた志士は16名であるが、池田屋2階の奥座敷に突撃したの新撰組は近藤勇・沖田総司永倉新八藤堂平助のわずか4名であった。
池田屋から対馬藩邸まで逃げられるような屋根が池田屋に無いなど、乃美織江の藩への報告・手記『池田屋事変』『乃美宣在職筆記』は矛盾を抱えているため、明治維新後、木戸孝允本人に確認した上で『桂小五郎京都変動ノ際動静』が著わされている。
それによれば、桂はいったん池田屋を訪ねたものの、志士がまだ集まっていなかったため、かねてから深く関わっていた対馬藩内の派閥抗争を解決するため対馬藩邸を訪れていたところ、外から帰ってきた対馬藩の大島友之允から池田屋が会津藩兵・新撰組に取り囲まれて襲撃されていることを知らされ、小五郎はいざ仲間の救出に向かおうとするものの大島に固く押し留められていた、とある。  (wikipedia・乃美織江より)]

[八月十八日の政変の不当性が認められない上、池田屋事件まで起こされた長州藩は、小五郎や周布政之助高杉晋作たちの反対にもかかわらず、先発隊約300名が率兵上洛し、久坂玄瑞軍が山崎天王山に、来島又兵衛軍が嵯峨天龍寺に、福原元僴軍が伏見に陣取り、朝廷に長州藩主父子や長州派公卿たちの雪冤(せつえん)を迫る。朝廷もそれに応じ、京都守護職を会津藩から長州藩に変えようとするところまで行くが、一橋慶喜から「もしそうしたいのであれば、幕府側は一切朝廷から手を引かせて頂く。お好きなようになされるがよい」と恫喝され、幕府・会津藩と完全な敵対関係になるまでは考えていない孝明天皇および公卿たちは躊躇した。そこで劣勢を回復した中川宮朝彦親王などの佐幕派公卿たちは逆に、朝廷と長州派公卿を介した長州との交渉を打ち切らせ、長州軍を挑発して一気に蹴散らしたい幕府側(一橋慶喜・会津・薩摩守旧派)の意向をそのまま受けて、長州軍の退去を期限付きで最後通告して来た。
長州方は武門の名誉に賭けて、結果を残さず兵を退く事はできないと天皇直訴と集団諫死する事で朝廷を動かそうと考えた。長州先発隊は、まだ瀬戸内海上にいる世子・毛利定広率いる長州軍本隊2千名に引き上げを要請した上で、先遣隊は兵を動かし蛤御門近辺で会津藩兵と武力衝突する事となった(禁門の変・蛤御門の変)。
このとき小五郎は、因州藩を説得し長州陣営に引き込もうと目論み、因州藩が警護に当たっていた猿が辻有栖川宮邸に赴いて、同藩の尊攘派有力者である河田景与と談判する。しかし河田は時期尚早として応じず、説得を断念した小五郎は一人で孝明天皇が御所から避難するところを直訴に及ぼうと待った。しかしこれもかなわず、燃える鷹司邸を背に一人獅子奮迅の戦いで切り抜け、幾松や対馬藩士・大島友之允の助けを借りながら、潜伏生活に入る。会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくると、但馬の出石に潜伏する。  (wikipedia・木戸孝允より)]

『京都対馬宗氏屋敷跡 桂小五郎寓居跡』碑建立。除幕式。|散策『史跡 …

国立国会図書館デジタルコレクション – [洛中絵図・洛外絵図]. [2]」(元禄8~同15[1695~1702]コマ番号・2/5 – 絵図四つ切左下・「本能寺」の左上に「宗對馬守」屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全」(文久3 [1863] – 絵図中央右方向、本能寺右に對馬と描かれています。)

カメラ東方向に対馬藩京屋敷跡碑があります。